カテゴリ:本編( 51 )

第51回:シンプソン/交響曲第3番

 世の中にブルックナーの作品の愛好家はそれなりに居ると思います。
 僕もその一人です。
 また、世の中にニールセンの作品の愛好家もそれなりに居ると思います。
 やはり僕もその一人です。
 この二人の作曲家が同時に好きな人も居ると思います。
 僕もそうです。
 では、ロバート・シンプソン(1921~97)の作品は?と言った瞬間にその数はここまでの人数からドンと減るのではないでしょうか。数多存在してきたクラシック音楽系の作曲家の中で、シンプソンの名前はまだマイナーだろうとは思います。とは言え、少なくとも上記の二人、ブルックナーとニールセンのどちらかでも好きな人であれば、一度はシンプソンの音楽に触れてみてはいかがかと。
 シンプソンはイギリスの作曲家で音楽番組のプロデュースも手掛けた人物です。また著書もあり、まだブルックナーやニールセンが彼らの母国圏以外での認知度が低かった1950~60年代に彼らを紹介する本を書いたりもしています。ということで、当然のことながら作曲家シンプソンにとってもブルックナーとニールセンは重要な位置を占めることになります。
 僕が初めてシンプソンを知ったのは20数年前だったと思います。当時<レコード芸術>か何かに音楽評論家の三浦淳史(1913~97)(伊福部昭や早坂文雄の盟友)が、マーラーのいくつかの交響曲演奏についてヤッシャ・ホーレンシュタイン(1898~1973)が指揮する録音を推奨していました。僕はそれでホーレンシュタインに興味を持った訳です。最初に彼の何を聴いたのかは覚えていませんが、好感を持ったのは確かで、それから彼の名を見つけるとちょこちょことディスクを入手していきました。マーラー、ブルックナー、ブラームス、ドヴォルジャークといって、ニールセンの交響曲第5番とかアンジェイ・パヌフニク(1914~91)というポーランド出身の作曲家の作品集とか。
 その流れの中で入手して聴くことになったのがシンプソンの交響曲第3番でした。1962年に作曲されたこの曲は2つの楽章からなります。演奏時間にして30分ちょっと。
 第1楽章はアレグロ・マ・ノン・トロッポで、始まって直ぐにエネルギッシュな動きを示します。その後音の強弱の移り変わりは頻繁に起こりますが、全体としては運動的な音楽が続いていきます。そして楽章の半ばに向かって執拗にティンパニの打音が繰り返される間、息長く頂点を目指していく場面が現れます。この流れを聴いているうちに、僕はニールセンの交響曲第5番の第1楽章を思い出しました。もちろん、そっくりそのまま構成をなぞっている訳ではありませんが、何か気分的なものとしては通じるのではないかと。またその音の運動のさまやオーケストラの響かせ方にはニールセン的なもの(ニールセンの交響曲第4番~第6番あたり)を強く感じます。
 第2楽章はアダージョ。薄く静かな響きで始まり、しばらくはぼんやりとした感じで音楽は続きますが、途中から音楽の動きは速められていきます。また同じようなことを言いますが、今度はニールセンの5番の第2楽章の途中に現れるスケルツォ的な音楽に通じる感じ。そう言いながらも僕はそれが「似ている」とか、まして「パクリ」だとは思いません。ブラームスの交響曲第1番が世に出た時、ハンス・フォン・ビューローがそれを「ベートーヴェンの第10交響曲が現れた」と評したのと同じようなものだと捉えてもらえれば。さて、先述の動きが最高潮に達した後は最初の静けさが戻ってきて、全曲が閉じられます。
 全体として旋律的ではありませんが、動機レヴェルでの音の動きの変化や積み重ねあるいは繰り返し(その延長線上に生じる息の長い進行→ブルックナー的)と、ダイナミクスの大きな振れ幅といったものが一体化した音楽とでも言えば良いのでしょうか。「新しさ」という点では特にどうということは無いのかもしれませんが、とは言え古臭さも無いように思います。
 まあ、そんな音楽を僕は面白く思った次第で、それからシンプソンの作品のCDを見つけると購入するようになりました。結果、聴いたものの全部を愛聴している訳ではありませんが、交響曲で言えば第3番の他に第2番、第6番、第7番、第9番とかは僕のお気に入りと言っても良い作品です。
 ニールセン的なものは6番や7番あたりで更に強くなっているようにも思いますが、9番(演奏時間にして50分)とかになると全曲の構成や音楽の流れ、そしてスケールの大きさの点でブルックナー的なものがはっきりと出ているように思えます。それはブルックナーの中でもとりわけ第9番からの影響なのではないかと。
 というロバート・シンプソンですが、まあもし最初に1曲ということであれば、やっぱり交響曲第3番かなあと。ディスクはシンプソンの交響曲全集!(全11曲)を完成させているヴァーノン・ハンドリー指揮のロイヤル・フィル(Hyperion)も良いと思いますが、前述のホーレンシュタイン盤(ロンドン響/Unicorn→NMC)をよりおススめしておきます。
f0306605_1363411.jpgf0306605_1365742.jpg(ホーレンシュタイン盤とハンドリー盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2016-06-22 01:40 | 本編 | Comments(0)

第50回:ペルゴレージ/スターバト・マーテル

 前にアルヴォ・ペルトの<スターバト・マーテル>を取り上げましたが、今回はそこから250年ほど遡った頃の<スターバト・マーテル>を。
 ジョヴァンニ・バティスタ・ペルゴレージ(1710~36)は20代半ばという若さで世を去っていますが、彼の遺したいくつかの作品はクラシック音楽史上において重要な位置を占めています。その中のひとつは、後のモーツァルトの<フィガロの結婚>やロッシーニの<セビリヤの理髪師>といった喜劇的要素の強い系統の歌劇(オペラ・ブッファ)に繋がっていくことになる歌劇<奥様女中>です。これがペルゴレージ23歳の年の作品。そしてもうひとつが死の直前に書き上げた<スターバト・マーテル>です。
 ペルゴレージの<スターバト・マーテル(悲しみの聖母)>はソプラノとアルトの独唱、ヴァイオリン2部とヴィオラ、通奏低音という編成を採ります。
 第1曲「悲しみの母は立っていた」は、4分の4拍子で低音の8分音符の歩みの上にヴァイオリン2部とヴィオラがすっと折り重なってきます。モーツァルトの<レクイエム>の冒頭程の厳しさは無いかもしれませんが、悲しみ故の透徹の美がそこにはあるように思います。合奏に導かれてソプラノとアルトも入り、美しく歌い交わします。
 第2曲「呻き、悲しみ、歎くその魂を剣が貫いた」は、一転してテンポを早めての3拍子によるソプラノ独唱曲、第3曲「ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか」は前奏も置かずに始められる二重唱曲、と続いていきます。
 ペルゴレージの<スターバト・マーテル>は全部で12曲から成りますが、独唱と重唱の組み合わせ、曲ごとのテンポの切り替え、表情の変化が明確に描き分けられており、そういった対比が全体の劇的効果をより高めているように思われます。例えば第8曲「私の心を燃やしてください」が、速いテンポで激しく緊張感溢れる曲なのに対し、続く第9曲「聖なる母よ、どうかお願いします」では落ち着いたテンポで包容力のある温かみのある音楽が置かれていたりします。
 宗教的な作品としてはあまりに甘美かも知れませんし、歌劇の一場面のようなムードもあるかも知れません。しかし、どのような表現方法が採られているにせよ、ここには「悼む気持ち」が芯となって全体を貫いているように思います。最後の第12曲「肉体が滅びる時には」の前半は第1曲の悲しみと同じ雰囲気が表されるのです(本当の最後は速いテンポの「アーメン」の呼び交わしですが)。
 現在のように古楽系のスタイルが主流になる前には、それこそオペラティックなノリの演奏も普通に存在しており、その方向性であれば例えば1972年録音のミレッラ・フレーニとテレサ・ベルガンサが独唱を務めたエットーレ・グラチス盤(Archiv/ユニバーサル)とかかなと。もちろんこれはこれで面白いとは思いますが、僕は古楽系のすっきりしたスタイルの方がより好みだったりします。その中でひとつ挙げるとすれば1999年録音のクリストフ・ルセの指揮(レ・タラン・リリク)とバーバラ・ボニー、カウンター・テナーのアンドレアス・ショルによるものです(Decca/ユニバーサル)
f0306605_23514831.jpg
(ルセ盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2016-05-30 23:53 | 本編 | Comments(0)

第49回:ダウランド/沈黙の夜(歌曲集<巡礼の慰め>より)

 その昔、高校生の時に世界史の先生がシェイクスピアの生没年の覚え方を教えてくれました。「人殺し、いろいろ」なのだそうです。生年が1564年、没年が1616年というわけ。なるほど。
 ジョン・ダウランド(1563~1626)はシェイクスピアと同時期に活躍したイギリスの音楽家。生前は作曲家というよりもリュート奏者としての名声が高かったそうです。しかし彼はなかなかの苦労人で、母国イギリスで認められるまでにヨーロッパ各地を転々とし、イギリスの国王付きのリュート奏者に任命されたのは彼が50歳になろうか、という頃のことでした。
 ダウランドが遺した作品としては主にリュート独奏曲と、リュートや合奏の伴奏が付いた歌曲が挙げられます。で、今回は歌曲を。
 ダウランドの歌曲の素晴らしさ。単にメロディが美しいだけでなく、歌詞が言い表そうとしていること、訴えかけようとしている感情と一体化したような音楽になっている、と言えば良いのかも知れません。特に彼の「悲しみ」の表現。悲しみ、涙、嘆き、といった、一般的にはネガティヴな感情を、彼は大げさな身振りでは示しません。一旦全てを受け止め、深い共感や諦念によって浄化した美しさ、と僕は言いたい。
 ダウランドの時代は、もちろん今の僕たちの時代とも、またフランツ・シューベルト(1797~1828)の時代とも違います。時間の感覚(人の寿命の長さ、移動や情報の伝達の速度など)の違いは当然ですが、感情や思考を表に出すこと(抑制と解放の在り方)についての感覚も異なるように思います。それが時代の美学の違いと言えばそれまでですが、とは言えそこに共感できるものがあるということは、そこに普遍的な人生観に結び付けられる何かが含まれているのだとも思うのです。
 そんなダウランドの歌曲の中で僕がいちばん愛聴しているのは、<沈黙の夜(From Silent Night)>と題された1曲。ダウランドが遺した4つの歌曲集の最後にあたる歌曲集<巡礼の慰め>(1612年出版)に含まれています。
 独唱にリュートやヴィオルの伴奏が付けられている<沈黙の夜>は、まさしく全編悲しみの色に包まれた詞を歌っています。他の歌曲がおおよそ数分程度の長さなのに対して、<沈黙の夜>はゆったりとしたペースであるとは言え、大体10分程度を要します。3番まである歌詞の中にも繰り返しがあるにせよ、ちょっとこれは異様かも知れません。僕はこの曲を初めて聴いた時、果てることなく歌われていく悲しみや苦しみ、嘆きの歌にとても衝撃を受けました。肺腑を抉られるような、という感覚とも言えます。特に後半の悩ましく半音階で上昇していく動きは非常に特徴的です。そして、そこに何がしかの慰めの気配はありますが、凄惨なまでの心象風景は、シューベルトが<冬の旅>で描いたものと似ているようにも思えてなりません。
 ディスク。ダウランドの歌曲全般について言えば、何と言っても波多野睦美先生(僕の高校の時の音楽の先生だったので)のディスクの数々なのですが、多分<沈黙の夜>は残念ながらまだ録音はされていなかったのでは。ということで、僕のこの曲についての愛聴盤を挙げるなら、ヴィオラ・ダ・ガンバのヒレ・パールとリュートのリー・サンタナにソプラノのドロシー・ミールズが加わったもの(Deutsch Harmonia Mundi)、ということになります。またダウランドの歌曲集のほとんどを録音したリュート奏者、アントニー・ルーリーがディレクターを務め、名歌手エマ・カークビーを擁するコンソート・オブ・ミュージックの演奏(L'OISEAU LYRE)も優れていると思います。
 ダウランドついでにもうひとつご紹介しておくと、イギリスのロック歌手、スティングもダウランドの音楽に魅せられた一人で、彼はダウランドの曲を中心にしたアルバム<ラビリンス>(DG)を2006年に作っています(<沈黙の夜>は含まれていませんが)。上述の古楽の歌手とは違い、現代の普通の歌の歌い方をしていますが、まるで現代のシンガーソングライターの歌のような味わいがあって、とてもユニークです。ひょっとしたらこれから初めてダウランドの音楽に接してみよう、とする人には面白いかもしれません。
f0306605_123599.jpgf0306605_1242118.jpg
(パール盤とスティング盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2016-04-07 01:27 | 本編 | Comments(0)

第48回:ソレル/ファンダンゴ

 チェンバロのための作品を。
 前にジェルジ・リゲティの<ハンガリアン・ロック>という、チェンバロに対して「無茶ぶり」な曲を取り上げましたが、今回もなかなかの曲です。リゲティのは20世紀の作品でしたが今回は18世紀、もろに「クラシック」な音楽と言って差支えないでしょう。しかし、ひねりはあります。
 スペインの作曲家、アントニオ・ソレル(1729~83)の<ファンダンゴ>という作品です。ソレルはスペインの宮廷に仕えた作曲家で、ポルトガル経由でイタリアからやってきたドメニコ・スカルラッティ(1685~1757)に学んだと言われています。スカルラッティは単一楽章で出来ているチェンバロのためのソナタを500曲以上遺しており、元々は練習曲として書かれたそれらに盛り込まれたさまざまな演奏技巧やスペイン風の楽想はソレルにも影響を与えたと考えられています。ソレルも100曲ほどのソナタを書いており、その中にも面白いものがあるのですが、今回は<ファンダンゴ>で。
 ファンダンゴはスペインのアンダルシア地方の民族舞踊のひとつで、現在フラメンコとして知られている芸能が成立していくにあたって重要な位置を占めているものとされています。活発な3拍子系で、ギターやカスタネットで伴奏されることが多いようです。
 ソレルの<ファンダンゴ>は演奏時間にして10分前後を要します。最初に導入的な部分が現われますが、その中で既に曲の根幹となるパターンが出てきます。左手(低音部)に出る「ラ―↑ラ―↓ミ―↓ド♯―↓ラ―↑ソ/ファ―↑ラ―↓レ―↓シ♭―↑ソ―↓ソ」という2小節の動きがそれです。これが執拗に執拗に繰り返されるのと同時に、さまざまなスペイン風なメロディやリズムを持ったフレーズが次々に繰り出されていくのです。細かい3連符や6連符をいくつも含んでみたり、妖しく半音階で進んでみたり、同じ音の素早い連射が出てみたり。しかもそれらは折り目正しく4小節や8小節ごとにきちんと区切りを付けられるようなものではなく、即興性に富んだ、音の勢い自体に完全に流れを委ね切った状態で進められていきます。
 多分、この<ファンダンゴ>を聴いた人の多くが思い浮かべるのは、フラメンコで激しく掻き鳴らされるギターの音楽そのものじゃないか、ということなのでは。そしてチェンバロがギターと同じ撥弦楽器であることもそれには作用しているはずです。こんな強烈なチェンバロ音楽が18世紀に存在していたなんて。
 ディスク。前述したとおり、即興度合いの強い音楽ですから、それをいかに出すか。僕の好みで言えば、基本のテンポ設定を少し速めに取り、それを流れに応じて柔軟にかつ大胆に変化させていく方が、より面白く聴けるかなあと。その点でお気に入りは、まずはベルトラン・キュリエ(Alpha)の演奏ですし、もっと攻めの方の演奏であればアンドレアス・シュタイアー(Teldec)を挙げたいと思います。決してぬるくはないけれど、その2つよりも落ち着いた感じの演奏で言えばマギー・コール(Virgin/Erato)も。

f0306605_2325585.jpgf0306605_23261479.jpgf0306605_23264349.jpg
(左からキュリエ盤、シュタイアー盤、コール盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2016-03-01 23:28 | 本編 | Comments(0)

第47回:エネスク/ルーマニア狂詩曲第1番イ長調 作品11-1

 東欧出身の作曲家による音楽の面白さ(ユニークさ、と言っても良いものですが)を僕が最初に意識したのはハンガリーのベラ・バルトーク(1881~1945)の作品でした。彼のいろいろな作品に触れていくと、ハンガリーだけでなくブルガリアやルーマニアといった他の地域の音楽からの影響も含まれていることを知るようになります。僕の場合は、そこから「ブルガリアン・ヴォイス」だったり、もっと生の民俗音楽のCDに手を出していくようになりました。この辺は、前回のストラヴィンスキーの<結婚>の話にも繋がっています。
 で、東欧の民俗音楽の中でも結構お気に入りにしているのが<ファンファーレ・チョカリーア>というグループのCDです。このグループはルーマニアのロマ(ジプシー)のブラスバンドなのですが、ジャンル的には「ジプシー・ブラス」と言った方が分かりやすいかも知れませんね。僕は彼らのファースト・アルバムにあたる<ラジオ・パシュカニ>(1998年)を聴いて、その高速吹奏や強烈に泥臭い演奏ぶりをとても面白く思いました。
 因みに東欧のロマの音楽のグループは他にも<ラカトシュ・ファミリー>とか<タラフ・ドゥ・ハイドゥークス>といった辺りが日本でもよく知られていると思いますが、僕個人の好みはどうやらブラスな分だけ<ファンファーレ・チョカリーア>の方にあるようです。
 さて、ここまでが前置き。
 今回のお題はルーマニアの作曲家、ジョルジェ・エネスク(1881~1955)の<ルーマニア狂詩曲第1番イ長調 作品11-1>です。
エネスクは20世紀前半を代表するヴァイオリニストでもありました。その演奏はそれなりの数が遺されており、例えばバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティ―タ集は録音の古さ(1940年代)はあるとは言え、今でも聴かれるべき名演だと思います。作曲家としてのエネスクはこの<ルーマニア狂詩曲第1番>が最も有名な曲扱いされているように思いますが、意外に僕は結構最近まで聴いてこなかった。避けていた訳ではありませんが、たまたま触れる機会が無かっただけ、ということです。なのに、僕は歌劇<エディプス王>の方を先に聴いてしまい、これは凄い作品だなあと思った後で<ルーマニア狂詩曲>を知ることになりました。この「聴く順序」が違ったせいでもあるのですが、まあ正直なところ「作曲家・エネスク」にとって<ルーマニア狂詩曲第1番>はベストの作品とは言えないでしょう。
しかし、<ルーマニア狂詩曲第1番>はエネスクがまだ20歳前後(1901年)に書かれた若書きの作品であること、また同じ時期に同世代のバルトークがまだ民族要素の強い音楽にまで至っていなかったこと等を考えると、やはり軽く見られるべきでは無いとも思います。ついでにもう少し周囲を見回すと、チェコのアントニン・ドヴォルジャーク(1841~1904)は晩年にさしかかろうとしていましたし、レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)はまだ作曲では表舞台には立っていませんでした。
エネスクに話を戻します。曲自体はかつてフランツ・リスト(1811~86)がシリーズとして書いた<ハンガリー狂詩曲>のように、民俗音楽の要素(メロディーやリズム)をストレートに出して、かつ緩やかなテンポから次第に熱を帯びていき最後は華々しく終わる、という分かりやすい作りで書かれています。
僕が<ルーマニア狂詩曲第1番>を気に入ったのは、ほんの数小節(4小節か6小節)のフレーズが引っかかってきたから。それは曲が盛り上がってきて、そこまでイ長調で来ていた流れが急にイ短調に移り、全体として更に勢いを増した所で登場するトランペット2本のフレーズです。曲中では全部で3回しか出てきませんけれど。1stのトランペットの音を書き記すと「レ♯―ミ―シ―ド/レ♯―ミ―ファ♯―ソ/レ♯―ミ―シ―ド/レ♯―ミ―ファ♯―ソ」で、2ndはそれの3度下の音をなぞって進みます。この半音の動きの含み具合は普通の長調や短調とは明らかに違っていて、エキゾチックなものを感じさせてくれるように思います。
このフレーズを意識した時、僕は何故か<ファンファーレ・チョカリーア>のことをふと思いました。エネスクがジプシー・ブラスそのもののフレーズを使った訳でもありませんし、逆に<ファンファーレ・チョカリーア>の音楽にエネスクのフレーズが含まれている訳でもありません。でも何か相通じるものがある。それはこのトランペットの「響き方」であるように思います。
実は<ルーマニア狂詩曲第1番>には、このトランペット2本と別にコルネット2本も編成に含まれており、こちらはこちらでジプシー・ブラス風なフレーズを受け持つ部分も出てきます。もちろん僕はこっちのフレーズも好きですが、トランペットのものの方がより、という感じではあります。
とにかく、そんなピンポイントなことから始まった<ルーマニア狂詩曲第1番>の好きさ加減ではあるのですが、四の五の言わずにまあとりあえずは取っつきやすいし、ノリも良いし、ということでちょいちょいと楽しんでいます。
ディスクは、そのトランペットのフレーズがしっかり聴こえた方がより僕の好み。アンドレ・プレヴィン/ロンドン響(EMI:1971年録音)とか。そのフレーズにこだわらずに曲全体のテンポの動かし方だったり節回し、更に速い部分に移ってからのノリの良さということで言えばアンタル・ドラティ/ロンドン響(Mercury:1960年録音)ですかね。もちろん、それなりに人気の高い「お楽しみ曲」なので他にも数多くの録音があり、それぞれの味付けの仕方が興味深いところではあるのですが、その中で挙げておくとすればやはりエネスク自身の指揮とコロンヌ管による演奏(Naxos:1950年代)だと思います。

f0306605_137487.jpgf0306605_13868.jpgf0306605_1382393.jpg(プレヴィン盤、ドラティ盤と<ラジオ・パシュカニ>)
[PR]
by ohayashi71 | 2016-01-28 01:40 | 本編 | Comments(0)

第46回:ストラヴィンスキー/バレエ・カンタータ<結婚>

 イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)の音楽の面白さはどこから来ているのか、と大上段に構えたところで僕は大したことは言えないのですが、少なくとも踊りや演劇的な表現との関わりを無視することは出来ないと思います。それは身体の動きや言葉を意識することで生み出されるリズムの多様さという言い方になるのかも知れません。
 また、そのリズムにしても、民俗音楽を徹底的に追究したベラ・バルトーク(1881~1945)とは異なり、ストラヴィンスキーの場合は古いロシアの音楽だけでなくて同時代人の生活や風俗(例えばジャズや文明の機械化)からの影響も受けていたように思います。更に、例えばバレエ<春の祭典>のような作品だと、いくつものリズム・パターンが同時に奏でられたり、複雑に拍子を変化させていくことで、混沌とした状態であったり、爆発的な生命力を感じさせるような音楽として描かれています。
 そんな<春の祭典>は1913年の初演時こそ大騒動を引き起こしましたが(その理由が全て音楽にあったのか、振付や衣裳にもあったのかは何とも言えないところですが)、現在では名曲、「20世紀の古典」と看做され人気の高い、演奏機会も多い作品となっています。僕も学生の頃に<春の祭典>のスコアを入手してオケ仲間と随分楽しみました。もちろん、それは曲構造の分析やがっつり演奏するというレヴェルなんかではなくて、複雑な拍子やリズムの変化、あるいは響きのダイナミズムに対する感覚的な興味であり、ある種ゲーム的な関心であったと思います。そういう軽いノリで捉えるだけであれば、<春の祭典>は実は親しみやすい音楽なのではないでしょうか。しかし、僕が本当に<春の祭典>の凄さを本当に思い知ったのはピエール・ブーレーズ/クリーヴランド管弦楽団の演奏に出会った時でした。整然と変化していくリズムや拍子の面白さは当然のこととしても、特に第2部前半のようなゾッとするぐらいに精妙な響きの美しさも大きな比重を占めている音楽であることに、そこでようやく気が付いたのでした。
 <春の祭典>の圧倒的な面白さは今でも聴く度に感じることではありますが、じゃあストラヴィンスキーの全作品で最も好きな曲か、と言われると今の僕はそうではありません。
 そこで登場してくるのがロシアの婚礼をモティーフにしたバレエ・カンタータ<結婚>(1923年初演)です。
 <結婚>は4台のピアノと打楽器群、それに独唱パートを含む合唱という変わった編成が採られています。<春の祭典>で聴かれるオーケストラの色彩感とは全く違う、ピアノを含め打楽器の硬質な響きと声楽という独特な色合いはとにかくユニークだと思います。
 更にやはりリズム。<春の祭典>にも負けないぐらいの不規則な拍子の変化と、異なるリズムの絡み合いと並行ぶり。それが人の声も交えて現われてくるさまは本当にスリリングです。
 <結婚>に僕がハマるきっかけとなったディスクとの出会い。それは大分時代のことでした。今はなきリズムレコードで民族音楽(ワールド・ミュージック?)の棚を物色していたらストラヴィンスキーのバレエ<結婚>が収録されたCDを見つけました。<結婚>という作品は一応知っていましたが、当時はそんなに面白さを感じてはいませんでした。でも民族音楽についてもそれなりに興味を持っていた(例えばブルガリアン・ヴォイス(ブルガリアの民族音楽をベースにした女声合唱)のような音楽)せいもあって、<結婚>がどう民族音楽と直接的に(要は1枚のディスクの中で)関わっていくのか、という関心に押されてそのCDを買うことにしました。
 そのCDはストラヴィンスキーの<結婚>と、ロシアの婚礼歌集を併せて収録したものでした。演奏していたのはポクロフスキー・アンサンブルというロシアの民族音楽の演奏グループ(Nonesuch/ワーナー)
 一応の期待感を持ちつつ聴き始めて、本当に本当に僕は驚き、興奮しました。何がそんなに凄かったのか。まずポクロフスキー・アンサンブルの合唱は、全くクラシック的ではない発声であり歌声でした。実は僕がそれまでに聴いていた<結婚>の演奏は、あくまでもクラシック音楽としての声楽の歌い方で歌われていたのですが、ポクロフスキー・アンサンブルはブルガリアン・ヴォイスにも通じるような地声的な声で、土俗そのものの感じで歌われていたのです。まさに民謡を歌うかのように。かつ、実際に歌っているメンバーの人数は少ないようですが、楽譜にある音量の指定をかなり無視したような(恐らく録音自体のバランスも変えて)エネルギッシュで迫力溢れる歌いっぷり。しかも、速めのテンポを取りながら、複雑なリズムを全くものともしない怒涛の畳み掛け。
声楽パートだけでも結構大胆な演奏(解釈)なのに、ピアノと打楽器の器楽パートはパソコン打ち込みでやったのだそうです。これはストラヴィンスキー自身が楽器編成を模索する中で、当時の自動楽器を使うことについて検討したことがあった、という経緯を踏まえているとのこと。
 そして、このある意味ハイブリッドな演奏の結果として聴こえてくる音楽の圧倒的な生命力、土俗の美に、僕は完全にノックアウトされました。こうしてこの掟破りとも言えるポクロフスキー・アンサンブルのCDは、僕のレパートリーの中でかなりの重要度を占めることになったのでした。聴く度に熱くなる感覚は、出会いから10数年経った今でも全く薄れていませんね。そのぐらい衝撃を受けたのです。
 余談ですが、実はこのポクロフスキー・アンサンブルの公演を大分でも出来ないかなあ、と当時個人的に考えたことはありました。しかし、さすがにマニアック過ぎるので内々にすら提案はしませんでしたけれど。その代わり、ポクロフスキー・アンサンブルの本職とも言うべき、ロシアの民族音楽を歌ったCDを何枚か海外発注してまで取り寄せたこともありました。
 さて<結婚>という作品自体が愛聴曲になったので、僕はそれが収録されているディスクがついつい気になります。その中で、掟破りのポクロフスキー盤ではない正攻法の場合での愛聴盤もいくつか挙げておきましょう。
 まずはストラヴィンスキーの自作自演盤。少なくとも2種類(1934年/EMIと1959年/Sonyの録音)はあるはずですが、そもそもどちらも英語で歌われているのが残念(オリジナルはロシア語、ポクロフスキー盤も当然ロシア語)なところ。僕の好みなのは、よりテンポが速くて引き締まっている1934年盤です。順序は逆ですが、意外にポクロフスキー盤の味わいに近いものをこの演奏から僕は感じています。一方の1959年盤にはピアノでサミュエル・バーバーやアーロン・コープランドといったアメリカを代表する作曲家たちが参加しているので、それは興味深いところではあるのでが、全体としてはちょっとユルいですかねえ。
 それから1977年録音のレナード・バーンスタイン盤(DG/ユニヴァーサル)。これはピアノでマルタ・アルゲリッチ、クリスティアン・ツィマーマン、シプリアン・カツァリスといった奏者が参加しており、それだけでも貴重ではないかと。少々重めですがロシア語歌唱盤としては優れた演奏だと思います。
 もうひとつ。フランス語歌唱で1965年録音のピエール・ブーレーズ盤(Ades)。ブーレーズの演奏としてはスキが多い方かも知れませんが、それはどちらかというと指揮者の責任では無いような気がします。ブーレーズはDGでそれまでにも録音した作品を再録したり、初めて録音したものも結構あるはずなのですが、何故か<結婚>についてはこれしか無いのでは。

f0306605_23343555.gif(ポクロフスキー盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2015-12-21 23:35 | 本編 | Comments(0)

第45回:メールラ/カプリッチョ・クロマティコ

 またマイナーと言えばマイナーな作曲家なのでしょうが、面白かったので。
 今回は、タルクィニオ・メールラ(Tarquinio Merula:1595~1665)というバロック初期のイタリアの作曲家の曲を。彼と同時代に活躍したイタリアの作曲家としては、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)であったり、ジローラモ・フレスコバルディ(1583~1643)あたりを挙げることになろうかと思われますが、ということはオペラというジャンルが確立されて人気を博していく時代でもあり、オルガンやチェンバロのような鍵盤音楽についてさまざまな表現が試みられていった時代でもあった、と言えるでしょう。因みに日本で言えば、江戸時代が始まった時期ですね。
 さて、メールラはイタリア北部の出身で多くはその地域で教会の音楽家として活動していますが、一時期はポーランドの宮廷に仕えていたこともあったそうです。彼は当時の新しいスタイルを積極的に取り入れた音楽をたくさん遺したとされていますが、僕はまだ彼の音楽を十分に聴いている訳ではありません。しかし、今回ご紹介する<カプリッチョ・クロマティコ(Capriccio cromatico=半音階的カプリッチョ)>の1曲だけでも僕は彼に強い興味を感じていますし、少し突っ込んで聴いてみたいような気もあります。
 何年か前にグスタフ・レオンハルトの<ルネサンスとバロックのオルガン(The Organ in the Renaissance and the Baroque)>という5枚組のアンソロジー(Vivarte)を入手しました。レオンハルトのアルバムはどれも傾聴すべきものだとは思っていましたが、これもやはりそうでした。このボックスは、その時代に生み出されたヨーロッパ各地のオルガン音楽を数多く収録したもので、まあ、正直僕がここで初めて知った作曲家や作品が多かったのも事実です。オルガン音楽のひとつの頂点はヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の作品群であると思いますが、大雑把に言ってしまうと、このボックスはそこに流れ込んでいくことにもなるさまざまなオルガン音楽をまとめたものだとも言えるかと思います(ここにはバッハに直接影響を与えたディートリヒ・ブクステフーデ(1661~1733)の作品は含まれていませんけれど)。
 このボックスはもともと別の4つのアルバムをまとめたものだったのですが、その中で<アルプス地方のオルガン>と題され、イタリア北部、オーストリア、ドイツ南部辺りの作曲家の作品を集めたものの中にメルーラの<カプリッチョ・クロマティコ>が含まれていました。因みにIMSLP(ペトルッチ楽譜ライブラリー)というインターネット上の楽譜図書館にこの曲があるので、それに拠って話を進めます。
 それは出だしから不思議な音楽でした。
 4分の4拍子。まず二分音符でD(レ)が延ばされ、その後四分音符で半音ずつ上昇し、A(ラ)で一旦立ち止まりますが、また更に半音ずつ上昇していきます。そしてE(ミ)に辿り着くのと同時に下のパートでA(ラ)が二分音符として延ばされます。こちらも半音ずつ、ちょうど最初の動きを模倣するかたちで弾かれていきます。上のパートは十六分音符と八分音符を交えた別のフレーズを入れていきます。
 このフレーズは何度か繰り返された後、別の新たなフレーズに切り替わっていくのですが、高音部か低音部かのどちらかではずっと半音上昇の動きが並行して奏でられていくのです。しばらくそういう状態が続いた後、今度は半音ずつ下降していく動きが基礎になって、それにまた別のフレーズが絡んでいく、という感じで曲は進みます。途中、何度か半音の動きが切れますが、そこで音楽の流れ方が変わる訳でもなく、また半音下降の動きが再開されます。こういうある種のテキトーさがあっても音楽としては成立し得るところも面白いことです。
 演奏時間にしておよそ4分程度の曲ですが、僕が日頃聴き慣れている古典派以降の音楽とは全く異質の、明らかに別の美学から生まれたと思われる音楽であることに驚かされました。音の動きについての創意に溢れた作品だとも思いますが、何よりも半音階の進行がもたらす瞬間的な不安定感というか行き先の定まらなさ感が非常に面白いと感じたのです。バッハのチェンバロ曲に<半音階的幻想曲とフーガ BWV.903>という名作がありますが、こちらは半音の動きがタイトルのとおり自由で幻想性を感じさせるのに対し、メールラの場合は自由さよりも半音階の均一的な動きが却って無限音階を思わせる、ちょっとエッシャーのだまし絵的な居心地の悪さのようなものを僕は覚えるのです。まあ、だからこそ面白いのかも知れませんが。
 ディスク。多分、どの演奏でも曲の面白さ自体は十分に伝わるとは思いますが、レオンハルト盤の他にいくつか挙げるとすれば、角張った感じで更に異様感が出てきてしまっているヘルベルト・タヘツィ盤(Teldec)や、メールラのオルガン作品全集のフランチェスコ・チェーラ盤(Tactus)、オルガンでなくてチェンバロで弾いたリナルド・アレッサンドリーニ盤(Opus111)とか。
f0306605_0524821.jpgf0306605_0583281.jpgf0306605_053747.jpgf0306605_0532393.jpg









(左上からレオンハルト盤、タヘツィ盤、チェーラ盤、左下アレッサンドリーニ盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2015-11-11 01:04 | 本編 | Comments(0)

第44回:ラハナー/<秋> 作品30

 多分これまでの中では最もマイナーな作曲家のことを。
 フランツ・パウル・ラハナー(Franz Paul Lachner/1803~90)はウィーンやミュンヘンなどで活躍したドイツの作曲家、指揮者です。僕は彼の曲については今回取り上げる歌曲<秋>の他にせいぜい数曲程度しか聴いていません。今回改めて彼の他の作品も少し聴いてはみましたが、ちゃんとした音楽だなあ、とは思いはするものの、率直なところそれ以上に掘り下げるべきという気にはなっていません。とりあえず今のところは。
 とは言え、僕たちが普段聴いているような「名曲」が実は圧倒的な存在であり、その陰に隠れてしまっている「佳曲」がたくさんあることもまた確かなことです。その意味で今回のラハナーの<秋>はそうした「佳曲」のひとつではあるだろうと僕は思っています。
 ラハナーは20代の頃にウィーンでフランツ・シューベルト(1797~1828)と深い親交を結んでいました。シューベルトとその仲間や信奉者たちが集う「シューベルティアーデ」のメンバーの一人であり、シューベルトが死の病に臥している時も付き添っていたそうです。そんなラハナーですから作曲活動にあたってシューベルトの音楽からも大きな影響を受けたであろうことは想像に難くないところです。
 さて、今回ご紹介するラハナーの<秋>は1831年に出版された歌曲ですが、独唱とピアノ、それにホルンあるいはチェロのための作品として書かれています。歌曲は独唱とピアノのための音楽、というイメージが一般的でしょうが、こういうピアノ以外の楽器が助奏として加わるように書かれている作品もあります。実はシューベルトもこういう助奏楽器を加えた歌曲を彼の最後の年、1828年に遺しています。彼のほぼ最後の作品となった<岩の上の羊飼い>D.965ではクラリネット、またその前に書かれた<流れの上で>D.943ではホルンあるいはチェロを助奏としています。ピアノ・パートだけでも充実した内容を歌曲に盛り込んできたシューベルトですが、更に他の楽器を加えるようにしたのは、詩に含まれている世界を音楽として表現するにあたり、歌(と言葉)を邪魔しない程度に、寄り添うかたちで色合いを少し豊かにしようとしたのではないでしょうか。
 ラハナーがこれらのシューベルトの助奏付きの歌曲の演奏に直接触れていたのは間違いないと思われます。そうして自らの歌曲表現のひとつの在り方として、助奏楽器付きという形態を自分でも試みたのでしょう。ラハナーは200曲以上の歌曲を遺しましたが、助奏楽器付きの歌曲も<秋>の他にいくつか作曲しています。
 <秋>はルードヴィヒ・レルシュターブ(1799~1860)の詩によるもので、実はシューベルトも1828年に歌曲として曲を付けています(D.945/助奏楽器はありません)。詩は、秋の冷え冷えとした情景と失われていく希望や恋について述べられており、ちょうど<冬の旅>の景色にも近いものとも言えるでしょう。シューベルトの<秋>は重々しく、厳粛にこの世界を描いています。
 一方でラハナーの<秋>作品30は、ホルン(あるいはチェロ)の助奏を加え、シューベルトの突き詰めるような暗さではなく、もっとメランコリックな心象風景として描き出しているように思います。甘さがあるのかもしれません。しかし、それは人肌の温もりとも言えるものかもしれません。そしてその温かみを生み出しているのは、僕はホルンの響きであるように思います。ですから、単に独唱とピアノだけで書かれていたら正直物足りなかったかもしれません。
 僕がラハナーの<秋>を知ったのはソプラノのジョーン・サザーランドがリチャード・ボニングのピアノ、バリー・タックウェルのホルンで1987年に録音した<Romantic Trios for Soprano, Horn and Piano>(Decca)というディスクでした。このアルバム、全曲がソプラノ、ホルンとピアノによる歌曲で、ラハナー(<秋>を含めて3曲)の他にベルリオーズやドニゼッティ、マスネなどの歌曲を集めたものでした。聴いた最初からピンとは来なかったのですが、何度か聴くうちに最初に書いたような「佳曲」があることに気が付いた、という訳です。中でもラハナーの<秋>は結構お気に入りの曲になりました。とは言え、演奏としては少しユルいかなあ、と思っています。特にサザーランドの声に年齢を感じてしまう、というのが正直なところです。とは言えコンセプトとしてはとても素敵なアルバムではあると思っているのですが。
 他にラハナーの<秋>を収めたものとしては、アリオン・トリオというアンサンブル(ソプラノ、ホルン、ピアノ)が<Schubert & Co>というアルバム(ANTES EDITION)でラハナー、ハインリヒ・プロッホ(1809~78)、シューベルトのホルン助奏付きの歌曲ばかりを収録しています。こちらも最上とは言い切れないところはありますが、十分に楽しめるものだと思います。

f0306605_1122918.jpgf0306605_1124825.jpg
 
[PR]
by ohayashi71 | 2015-10-17 00:38 | 本編 | Comments(0)

第43回:ムソルグスキー/展覧会の絵

 モデスト・ムソルグスキー(1839~81)の作品で、僕が最初に出会ったのは多分<はげ山の一夜>ではなかったかと。しかし<はげ山の一夜>について語り出すと長くなるのでまたいずれ。
 で、今回はムソルグスキーのもうひとつの代表作である<展覧会の絵>のことを。
 ご承知のとおり、ムソルグスキーの<展覧会の絵>はピアノ曲として書かれましたが、ラヴェルの管弦楽版をはじめ、多くの音楽家がさまざまな楽器編成による編曲を世に送り出しています。そうした編曲版の中ではラヴェルのものが群を抜いて面白いとは思いますし、耳にする機会も多いと思います。
 ただ、名作の白黒映画に彩色の加工をしてカラー映画に仕立て直したものが、元のものと同じか、あるいはそれ以上の感銘を与えてくれるかどうか、です。白黒には白黒なりの雄弁さと美しさがあるものと僕は思っています。その意味で、<展覧会の絵>はやはりムソルグスキーのピアノ曲だけであって、他の版とは完全に別物として捉えるべきではないかと。
 もともとムソルグスキーは1874年に友人で画家・建築家だったヴィクトル・ハルトマンの遺作展を観た印象をベースに<展覧会の絵>を書き上げています。ここでムソルグスキーはピアノの響きを選びました。とにかく演奏前提としてだったのか、管弦楽という編成を含め他の楽器の響きを必要と思わなかったのか、そこは分かりません。ただ、彼としては一気呵成に(数週間と言われています)この曲を書き上げた、またその後、彼が亡くなるまでの間に全く<展覧会の絵>については改めて手を付けることが無かった、ということからすると、彼の中ではピアノで十分であり、それ以外の選択肢は無かったのかも知れません。
第2曲<古城>で示される哀愁や孤独さ、第4曲<ビドロ(牛車)>の引き摺るような重苦しさ、重い足取り、第7曲<リモージュの市場>の朗らかな軽さ、第8曲<カタコンベ>の怖れを含む厳しさと静寂、第9曲<バーバ・ヤガーの小屋>の奇怪かつユーモアもある派手な描きよう、荘重なコラールを挟みつつ教会の鐘が打ち鳴らされるような圧倒的な輝きで閉じられる終曲<キエフの大門>という感じで、曲ごとの振り幅や方向性の大きな違いをピアノ1台でよくも描き切ったなあ、と思う次第です。更に曲のつくりについて言えば、冒頭から曲中で繰り返し現れる<プロムナード>が、単に場繋ぎとして挟まれるのではなく、直前あるいは直後の曲の世界に寄り添うような存在としても扱われており、結果<展覧会の絵>全曲の統一感を出す大きな役割を果たしています。少し極端なことを言えば、これはシューマンの連作風あるいは組曲風ないくつかのピアノ作品の延長線上に置いてみても良いのではないかとも思います。まあ、それぞれだいぶ向いている方角は違うのですが。
 こういったもろもろを踏まえてのディスクのこと。
 上述したとおり、僕はピアノ版で<展覧会の絵>は完結出来るものだと思っていますが、そのピアノでそれでもなお管弦楽的な色彩やダイナミズムを追求したピアニストが居ます。ウラディーミル・ホロヴィッツです。どこかに書いたことがあるかも知れませんが、僕はホロヴィッツは「芸」と「芸術」に二股かけて、それを「超」が付くぐらいのハイ・レヴェルで成し遂げた稀有の存在だと考えています(因みに僕は同じ位置付けにヴァイオリンのヤッシャ・ハイフェッツを置いています)。それは技術的な冴えが見え辛くなった彼の晩年であっても変わらなかったと思います。ただし、<展覧会の絵>の録音(1951年ライヴ:RCA/BMG)については彼の壮年期のものであり、技術的にもキレキレの頃の彼の「芸」と「芸術」に触れることが出来ます。<古城>のような曲では極端に繊細な弾きぶりを見せたかと思うと、動きの多い曲になるとムソルグスキーの楽譜に無い装飾的なフレーズを付けてみたり、元の音の動きをわざわざ動きの多いフレーズに変えてみたりと、演奏効果絶大の派手なアレンジが施されています。ですから、これは「ホロヴィッツ版」とか「ホロヴィッツ編曲」というただし書きが必要なシロモノではあります。ラヴェル版をはじめ他の編曲版を下げておいてホロヴィッツを挙げるのは本当はイケないことなのですが、ここまで面白くなってしまうのであればアリだろうと思います。まあ、古き良き時代、ヴィルトゥオーゾの時代の名残ということで。
 ホロヴィッツの変化球ぶりに比肩し得るド直球の演奏としては、まずはやはりスヴャトスラフ・リヒテルでしょう。リヒテルもまた晩年と若い頃では印象の異なる演奏家ですが、余計な色目を使わずに真正面からバリバリと弾いていくさまは圧巻です。リヒテルも何種類かの録音が出ていますが、最も有名なものは1958年、ブルガリアのソフィアでのライヴ録音です(Philips/ユニバーサル)。最初の方はそこまでの名演なのかとつい思ってしまうのですが、聴き進むにつれて、その響きの強さや鳴らし切る凄みに圧倒されます。特に<バーバ・ヤガーの小屋>から<キエフの大門>にかけて。
 <展覧会の絵>の古くからの名盤としてはこの2つ、リヒテルとホロヴィッツがよく挙げられてきました。これらがもちろん今でも聴かれるべき存在であることには変わりませんが、以降にも優れた録音はいくつもあります。
 例えば、ピアノ音楽の表現としての隙の無さ、バランスの良さという点でエフゲニー・キーシン(2001年:RCA/BMG)は大変素晴らしいですし、内向的に、そして丹念に曲を描き分けたイーヴォ・ポゴレリチ(1995年:DG/ユニバーサル)の深い抉りも、非常に聴き応えがあります。
f0306605_114138.jpgf0306605_114348.jpgf0306605_114578.jpgf0306605_1152086.jpg
[PR]
by ohayashi71 | 2015-10-12 01:16 | 本編 | Comments(0)

第42回:レスピーギ/交響詩<ローマの噴水>

 何きっかけだかを覚えてはいないのですが、オットリーノ・レスピーギ(1879~1936)の「ローマ三部作」と呼ばれる3つの交響詩(<ローマの噴水><ローマの松><ローマの祭>)は中学生だか高校生の頃にはレコードを買って聴いていました。ガイド本で必ず挙げられているアルトゥーロ・トスカニーニ/NBC交響楽団(RCA)の演奏のLPでした。
 その頃は<松>と<祭>をよく聴いていたように思います。特に<祭>の第4部の<主顕祭>のノリノリの熱狂ぶりが楽しかったですね。その後、大学のオケに入って、高校時代に吹奏楽部を経験した連中の話を聞くと、やはり<祭>のそれが好きなヤツが何人も居ました。コンクールとかで実際に演奏したり、聴いたり、ということがあったらしいです(もちろん編曲ですけれど)。
 ところが、歳を取ってくると<松>や<祭>の熱が少々鬱陶しく思えてくるようになりました(少なくとも僕にとってはですよ)。楽しいと言えば楽しいですし、当然立派な作品だと思うことに変わりはありませんが、手応えというか聴き応えというか、盛り上がり自体は楽しめても、そういうものがスルッと抜けていってしまうような気になってきた、と言った方が良いのでしょうか。決して<松>や<祭>の面白さをdisっている訳ではありませんよ。
 とにかく、その分、ということでも無いのでしょうが、今の僕には<ローマの噴水>がとても「いい感じ」に思えています。<噴水>は、「夜明けのジュリアの谷の噴水」「朝のトリトーネの噴水」「昼のトレヴィの噴水」「黄昏のメディチの噴水」という4つの部分から出来ており、時間の経過とそれぞれの場所の情景なり、そこからレスピーギが膨らませたイメージなりを音楽で描いた作品です。音楽の流れ的には静かに始まり、動きが示されて、更にその動きが大きくなり、最後は再び静けさの中に帰る、といったところでしょうか。
 「夜明け」や「黄昏」の静かな美しさも素晴らしいと思いますが、「朝」の盛り上がりが一段落してから、改めて立ち上がってどんどん高みを目指して突き進んでいく「昼」の壮麗さが今の僕にはグッときます。ドビュッシーの精緻さや精妙さを尽くした表現よりも、レスピーギはもっと直感的にオーケストラの響きから得られる快楽を追求しているのかも知れませんが、音楽における「お楽しみ」という要素もまた欠くべからざるものだと思います。
 さて、そんな<ローマの噴水>について、僕は未だにトスカニーニの演奏(1951年録音)が繰り広げる攻めのドラマは圧倒的だと思っていますし愛聴盤ではあるのですが、やはりモノラル録音は白黒映画みたいなものですから、レスピーギの色彩をもきちんと伝えてくれるステレオ録音も当然のことながら聴きたいところです。ということで、挙げておきたいのは1959年録音のフリッツ・ライナー指揮のシカゴ交響楽団の演奏(RCA)と1984年録音のリッカルド・ムーティ指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏(EMI/ワーナー)です。
f0306605_2358590.jpg f0306605_23583289.jpg f0306605_23585445.jpg
(左からトスカニーニ盤、ライナー盤、ムーティ盤)
[PR]
by ohayashi71 | 2015-10-07 00:00 | 本編 | Comments(0)


いつもコンサートの解説をお願いしている若林さんに、毎月オススメのCDを伺います!


by ohayashi71

プロフィールを見る
画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリ

全体
本編
はしやすめ
未分類

以前の記事

2017年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月

お気に入りブログ

最新のコメント

まあ、クラシック(的な音..
by ohayashi71 at 22:38
若林さんの「ガッツポーズ..
by がつん at 21:48
あー、あのboxですね。..
by ohayashi71 at 23:50
トータルブレインで紹介さ..
by はなやもも at 18:36

メモ帳

検索

画像一覧