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第41回:スメタナ/弦楽四重奏曲第2番 ニ短調

 ベドジフ・スメタナ(1824~84)というと。
 と、書き出すと前にやったバーバーの回と同じ感じになってしまうのですが、それはそれとして。でも、スメタナと言えば、やっぱりまずは交響詩<モルダウ(ヴルタヴァ)>になるのでしょう。今はどうか知りませんが、僕が中学生の時には音楽の授業で、<モルダウ>の主題旋律に歌詞が付いた合唱曲を歌った記憶があります。「いいメロディだなあ」と当時も思いましたし、同じ頃には原曲もレコードで頻繁に聴いて楽しんでいました。
 ご存じのとおり<モルダウ>はスメタナが晩年に取り組んだ連作交響詩<わが祖国>の1曲で、他の5曲の交響詩もとても素晴らしい音楽で、スメタナの代表作と呼ぶにふさわしい作品だと思います。
 スメタナは「チェコ国民音楽の祖」と言うべき存在で、<わが祖国>の他にも名曲をいくつも遺しています。
 例えば1866年に初演された歌劇<売られた花嫁>。チェコの民俗音楽の要素がたくさん含まれていて、劇中に何曲か登場する舞曲はどれも楽しい気分になります。またこの歌劇の序曲の軽妙なスピード感は僕の大好物です。
 また室内楽作品。1855年の<ピアノ三重奏曲 ト短調>や1876年の<弦楽四重奏曲第1番 ホ短調 わが生涯より>はスメタナを襲った不幸(娘の死や彼自身の耳の疾患)をきっかけとして成立した作品であり、そこで描かれた悲劇的な表現は、音楽としても十分に共感出来るものだと思います。特に<わが生涯より>の第4楽章の終わりで突然現れる第1ヴァイオリンの高音(ミ)はスメタナの耳鳴りを表現したものとされており、ショッキングでさえあります。
 スメタナは晩年に両耳の聴力を失ったばかりか、その後、精神状態が悪化することで彼の生命は奪われることになります。そういう状況だった最晩年(1883年)のスメタナが完成させたほぼ最後の作品、それが<弦楽四重奏曲第2番 ニ短調>です。
 この第2番は<わが生涯より>の続編という捉え方もあるようですが、実際のところはどうなのでしょうか。ただ僕にはこの曲の「整わなさ」加減が尋常でないように思えて、その意味で前作よりも更に好きな、いや、気になると言った方が良いのでしょうか、とにかくそういう存在なのです。
 「整わなさ」。それは「収まりの悪さ」と言っても良いでしょう。最初の3つの楽章が明快な形式に当てはまらない状態であり、また最後の第4楽章にしても何だかはっきりとした印象を残したまま全曲が閉じられるように見えることから来るもの、と言えば良いでしょうか。<わが生涯より>が最後のミの音をクライマックス(マイナスの、でしょうが)とするようにしっかりと構成されているのに対し、第2番はそういう「起承転結」的なかたちにはなっていません。
 とは言え、それぞれの楽章の中で楽想やテンポがしばしば交代することで生じる激しい緊張や葛藤の壮絶さは「整わなさ」や「収まりの悪さ」を超えて、その表現の強さ自体が聴き手に迫ってくるものだと僕は思っています。第1楽章冒頭で4つの楽器により激しく上昇していく部分。それを受けて、その後次第に高揚し、頂点で一気に大きな流れとなって走り出す部分(僕はここで時々感極まりそうになることがあります)。また、第3楽章でしばしば場を脅かすように現われるトレモロのフレーズなど、ある種、生の感情の爆発を目の当たりにしているような気持ちになるのです。
 ディスクのこと。<わが生涯より>はいろいろと出ているのですが、こういう音楽のせいなのか、第2番は意外に見当たりません。しかし、作曲者の名前を冠したチェコの往年の名グループ、スメタナ弦楽四重奏団の録音でもう十分なのかも知れません。多分入手しやすいのは1976年録音のDenon盤(日本コロムビア)でしょうが、1962年録音のSupraphon盤(日本コロムビア)も優れた内容だと思います。
 ところで、このスメタナの第2番に似た印象を受ける音楽があったなあ、と思っていたらレオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)の2つの弦楽四重奏曲を思い出しました。
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by ohayashi71 | 2015-09-02 01:24 | 本編

第40回:バーバー/ヴァイオリン協奏曲 作品14


 サミュエル・バーバー(191081)というとまずは<弦楽のためのアダージョ>でしょうか。単に美しいだけでなく、悲愴美と言い表した方が良い音楽が次第に高まり、いちばん空気が張り詰め切った瞬間に訪れる静寂、そして余韻を漂わせながら静かに閉じられる音楽。ここにあるのは耽美や甘さではなくて、透徹した美に貫かれた抒情というべきものでしょう。この類の抒情性こそ、新しいロマン主義と呼ぶべきものかもしれません。その新しさは僕たちも同時代人として理解、あるいは共感出来るものだろうと思います。だからこそ、この<アダージョ>は20世紀生まれの音楽(1930年代)としては人気や知名度が高いのでしょう。

 僕にとっての「初バーバー」はやはり<アダージョ>でした。で、ひとまずバーバーはこの1曲だけでも良いのかな、と思っていたら大間違いでした。次に知ったのはソプラノと管弦楽のための<ノックスヴィル・1915年の夏>という作品でした。上述した透徹美の抒情は共通していると思いますが、今度は、まあ歌曲であるだけにというのはあるにせよ、ノスタルジックな雰囲気がそこに加わっており、その何とも言えない空気感が素敵だったのです。湿度は高くない爽やかな空気、という感じでしょうか。

 僕は<アダージョ>と<ノックスヴィル>が収録されたCDを大学2回生の頃に見つけて購入しましたが、それは今でもお気に入りの1枚です。それはリチャード・ヒコックス指揮のシティ・オブ・ロンドン・シンフォニアの演奏で、<ノックスヴィル>ではジル・ゴメスが加わっているものです(Virgin)。因みにこのCDの他の収録曲は、コープランドの<アパラチアの春>のオリジナル編成の13楽器による版(現在よく聴かれているのは後に拡大された管弦楽版)とトランペットとイングリッシュ・ホルンと弦楽合奏のための<静かな都会>、ガーシュウィンの<ラプソディ・イン・ブルー>(ピアノはウェイン・マーシャルで、こちらも小編成版)という感じで、今考えてもとてもオイシイ内容だったと思います。ところが、このCD、現在は入手困難らしく、非常に残念なことです。

 さて、その次に知ったバーバー作品が<ヴァイオリン協奏曲>でした。これはとある演奏会で聴いたのが最初で、それからだいぶ経ってからアイザック・スターンのソロとレナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルの録音(Sonyを聴くようになってから名曲だと思うようになりました。

抒情性の豊かさについてはこれもまた同様ですが、ヴァイオリン協奏曲であるからには当然にしても、清冽な水の流れのようなメロディの数々もとても魅力的でした。

 第1楽章の冒頭から直ぐにソロ・ヴァイオリンが歌うように主題を奏でるのですが、それは大見得を切ったり、華々しくテクニックを披露するような感じからは程遠いものです。その分、独特な、結局のところさっきからずっと繰り返し書いている抒情的な世界が拡がります。この後に出てくるクラリネットで出てくる主題はリズミックな動きも見せますが、最初の主題の雰囲気を受け継ぐものでもあるように思えます。第1楽章はこの2つの主題によるソナタ形式で書かれていますが、決して奇を衒うような表現は現われません。

 アンダンテの第2楽章にしても表現上のヤマは存在しますが、どちらかと言うとつつましいものだと僕は思います。もちろん、そのつつましさの中にも確かな美が込められているとも思っています。

 この2つの楽章から一変して最後の第3楽章は実に動きの激しい楽章です。ソロの切れ味たっぷりの無窮動ぶりが鮮やかな音楽です。バーバーは抒情の裏返しのごとく、こういうテクニカルな音楽を急に(当然聴き手の側からすると、という意味で)持ってくることがありますが、ヴァイオリン協奏曲もその一例。各楽章の規模からするとアンバランスさはあるかも知れませんが、音楽の流れとしての対比を示すことでひとつの世界と看做す、というのはやはり面白いと思います。バーバーがこの協奏曲を作曲したのは1939年ということですから、ベルク(1935年)、プロコフィエフの第2番(1935年)、バルトークの第2番(1938年)、ヒンデミット(1939年)、ウォルトン(1939年)、ハチャトゥリアン(1940年)といったヴァイオリン協奏曲の名作と同時期に生まれたことになる訳ですが、それらと並べてみても結構特異な立ち位置にあるのではないでしょうか。

 ディスク。上述したとおり、僕はスターン/バーンスタイン盤をずっと聴いてきましたが、以前よりも若い世代のヴァイオリニストの録音が増えてきているようで、その中ではとりわけヒラリー・ハーンのソロとヒュー・ウォルフ指揮のセントポール室内管による1999年の録音(Sonyが素晴らしいと思います。あまりに抒情性に身を委ね過ぎることのない、ほど良い佇まいと、そして第3楽章で見せる圧倒的なテクニック(僕が聴いた中では最もテンポが速いかも)。

 もしバーバーの音楽について<アダージョ>しか知らないという方、次はぜひこの<ヴァイオリン協奏曲>を。


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(ハーン盤とスターン盤)
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by ohayashi71 | 2015-08-05 01:17 | 本編

第39回:マンロウ<ゴシック期の音楽>


 音楽の聴き方に正しいも間違いも無い以上、特定のジャンルや時代、作曲家あるいは作品ばかりを聴き続けたって何の問題もありませんが、とは言え僕はもったいながりなのでしょうか、自分の鑑賞レパートリーを限定してしまうのはどうかと思っています。少なくとも僕にとっては、音楽を聴くことについて美学や表現、趣味(嗜好の意味として)の違い自体に面白みを見出すことが楽しみだったりもするのです。

 その意味でバロックよりも古い音楽は、僕にとってはまだまだ未知の世界であって(もちろんそれ以降の音楽だって何を知っている訳ではありませんが、あくまでも比較の問題として)、だからこそ楽しみを見つけやすい状態であることは確かです。

 ということで、今回はこれまでよりもずっと古い音楽のことを。

 デヴィッド・マンロウ(194276はイギリス出身の管楽器奏者であり、音楽学者であり、古楽アンサンブルの主宰者だった人物です。彼の活動期間はわずか10年間ですが、その間に実に多くのアルバムを世に送り出しています。今でこそ中世やルネサンス期の音楽を収録したアルバムはさまざまな音楽家がたくさん作り出していますが、マンロウの活動や録音はそういう流れの最初の方に属するものだと考えて良いと思います。

 その意味では現在の音楽家たちの方が演奏の洗練度や精緻さは表現として増しているのかも知れませんし、あるいは研究の成果というものも含まれているのかも知れません。しかし、時代考証の正確さだけが聴き手の感動に直接結び付くものでないことは当然です。その点、少なくともマンロウの演奏を聴いた時、「退屈な博物館見学」をしているような感覚にはなりません。よく出来たコンピューター・グラフィック(CG)よりも手書きのイラストの方が「何だか伝わる」という感じでしょうか。歴史よりも生活感(人肌の感覚という意味で)を感じる演奏と言っても良いのかも知れません。

 マンロウは素晴らしいアルバムをいくつも遺していますが(例えば、かつて東芝EMIから<デヴィッド・マンロウの芸術>として発売されたシリーズなど)、僕がいちばん好きなのはマンロウがロンドン古楽コンソートと共に作った<ゴシックの音楽(Musicof the GothicEra)>というアルバム(Archiv/ユニヴァーサル)です。オリジナルのLP3枚組(CD2枚組)で、12世紀後半から13世紀前半の「ノートルダム楽派の音楽」、13世紀中盤以降の「アルス・アンティクァの音楽」、そして14世紀の「アルス・ノヴァの音楽」で構成されています。 

 僕が最初に気に入っていたのは「ノートルダム楽派」として扱われているレオナン(レオニダス)とペロタン(ペロティヌス)の音楽でした。グレゴリオ聖歌の素朴な神秘さや荘厳さとは異なり、そこに不思議な浮遊感が加わった、ある種の異様さすらも覚える音楽と言っても良いでしょう。それは単に斉唱が多声の合唱に変化しただけと言うには留まらない独特な美学が働いているように思います。当然のことながら、この美学(仮にそう呼んでおきますが)には「信仰」活動あるいはその表現の「かたち」の一種としての音楽、という意味合いも含まれていたと考えるべきです。

 それから13世紀の声楽曲をまとめた楽譜集<モンペリエ写本>に掲載されている作者不詳の<誰かが私を見てるかどうか(S'onmeregarde)>。二重唱で民謡的な旋律が歌われますが、2つのパートは主従関係というよりも、絡み合って一体となって響いている状態であって、僕はそこに美しさを覚えます。更にフィドルやハープが伴奏や間奏に加わることで彩りが増しているように思います。

 また「アルス・ノヴァの音楽」のひとつとして紹介されている作者不詳の<カタカタコットン、ある朝ロバンは(Clap,Clap, Par Un Matin)>はカタカタコットン、ある朝ロバンは粉挽小屋にコットン、おでかけ」と歌われる曲で、二重唱がClapという単語を何度もそれぞれで繰り返すことで調子が付いていてとても楽しい一曲です。

 ペロタンのように演奏時間にして10分を超えるような宗教的な作品がある一方で、1分少々でさっと終わってしまう世俗的な音楽も数多く収録されており、イメージ以上に幅広い中世ヨーロッパの音楽世界を概観するにはもってこいのアルバムだと思います。今は残念ながら国内盤が入手しづらいようで(抜粋して1枚にまとめたものもかつて出ていましたが)、解説や対訳のことがあるにしても、まだこの時代の音楽をあまり知らないという方であれば、輸入盤ででも一度触れてみると大変面白く感じていただけるかと。
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by ohayashi71 | 2015-07-02 23:24 | 本編

第38回:ハイドン/交響曲第82番ハ長調 Hob.I-82「熊」

 そう言えばの話。
 私たちは何気なく「交響曲」という単語を使っているわけですが、よくよく考えてみると、ドイツ語でSinphonie、イタリア語でSinfonia、英語でSymphonyという言葉をよく日本語で「交響曲」という訳をあてたよなあと思ったりするのです。「響き」を「交わす」、という状態はもちろん大概の音楽に当てはまるはずですが、このSinphonieというジャンルを特に「交響曲」と呼ぶことにしたのは、実際の音楽のイメージからすると実にピッタリくるように思えます。で、因みに調べてみると「交響曲」という訳語を作ったのはかの森鷗外(1862~1922)なのだそうです。なるほど、鷗外はドイツ留学中にかなり音楽会や舞台公演を観ていたようなので、その実体験が名訳を生んだのでしょう。
 さて、交響曲の起源は17世紀に遡るのですが、現在演奏会で多く取り上げられているのは18世紀以降の作品です。そしていろいろな作曲家が試行錯誤を重ねていく中で、現在に繋がる交響曲の基本形を確立したとされているのが100曲以上の交響曲を遺したヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)です。ハイドンが最初の交響曲を書いたのが1750年代で、最後の交響曲を書いたのが1795年ですから、彼は交響曲というジャンルに40年間ぐらいは向かい合い続けたことになります。
 音楽の教科書なんかでは『ハイドンの代表作:交響曲「告別」「驚がく」「軍隊」「時計」』という感じで記されていたように思います(大昔には「さよなら」とか「びっくり」とか書かれていたこともありますが)。確かにそう並べられるのは分からないではない。ただ、もしハイドンをもう少し深く聴く機会があるのであれば、やはりもう少し突っ込んだ接し方はしておきたいところです。要は、ハイドンの交響曲が40年間書き続けられたことを思い出すなら、その間にスタイルの変化があったことを理解しておくべき、ということです。
 例えば「告別」(因みにハイドンの交響曲の愛称は大概彼自身の「名付け」によるものではありません)。嬰ヘ短調という調性、徐々にオーケストラのパートが減っていく終楽章の作りと、それらを含めたドラマティックな表現などは、ハイドンの実験精神の表れと言えるでしょう。しかもそれは何も「告別」に限ったことではなくて、その時期(1770年前後)に書かれた彼の交響曲にはしばしばこうした実験的な表現が見受けられます。これらは同時代の文学運動の呼び名から「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」の作品と扱われています。
 一方、「驚がく(驚愕)」「軍隊」「時計」といった交響曲は、いずれもハイドンが1790年代に入って手がけたもので、ハイドンのロンドン公演を計画した興行師(今でいうところのプロモーター)ペーター・ザロモンの依頼で書かれたものです。6曲+6曲の12曲が書かれたこの「ザロモン・セット(あるいはロンドン・セット)」は、彼の交響曲創作の集大成とも言うべき存在です。これらは4つの楽章相互のバランスの良さと「職人技」とも言うべき動機展開のスリルが含まれている上に、更に前述のような実験精神をもにじませた交響曲群であり、まさに「巨匠の風格と余裕」を感じさせてくれます。
 では「シュトゥルム・ウント・ドラング」と「ザロモン・セット」の間の交響曲は? それは形式と構成、更に管弦楽編成の安定化を進める流れで作られていったものであるように思えます。その意味で「ザロモン・セット」の12曲の交響曲は、僕は「完成形の向こう側」にまで達した存在だと考えています。とすると、ハイドンの交響曲の「完成形」はどの辺の曲か。それは1780年代の半ばに書かれた「パリ・セット」と呼ばれる6曲の交響曲(第82番~第87番)ではないでしょうか。
実は、僕が初めてハイドンの交響曲の面白さ、素晴らしさを実感出来たのは交響曲第82番ハ長調Hob.I-82に演奏会で接した時でした。それは往年の名ヴァイオリニストであり、指揮者としても活躍したシモン・ゴールドベルク(1909~93)の最晩年の演奏会でのことです。指揮のゴールドベルクはもちろんですが、管弦楽を見事に引き締める響きを打ち出すティンパニが全曲を通じてまた素晴らしかった。
 序奏なし(この曲の場合「助走なし」と言っても良い)で、いきなり一気に駆け上げる第1主題と、続いて現れる「タタタッタッタン」というリズム、コンパクトで優美な第2主題を中心にしたソナタ形式の第1楽章の生命力に満ちた華々しさに僕はまず感激しました。
 急速な第1楽章から一転して、伸びやかさの中に時おり明暗のコントラストもしっかりと描き出している変奏曲の第2楽章や落ち着いたメヌエットの第3楽章も良かったのですが、やはりフィナーレの第4楽章。ヴィヴァ―チェの4分の2拍子で、低弦が前打音(h=シ)と二分音符(c=ド)の半音上がるパターンで弾き出すのですが、この響きが「熊の唸り声のようだ」と当時思う人は思ったらしく、そこからこの交響曲の愛称は「熊」と呼ばれています。で、急速なテンポとこのワクワクとさせるような出だしの第4楽章は。豪快かつ爽快な楽章で、切れ味抜群の音楽。
 このゴールドベルクの名演のイメージが僕には強過ぎるのですが、それでもディスクを挙げるとすればまずはブルーノ・ヴァイル指揮のターフェルムジーク・バロック管弦楽団(Sony)ですね。圧倒的な躍動感と節度ある表現とのバランスが高度に絶妙な演奏。あとはアダム・フィッシャー指揮のオーストリア=ハンガリー・ハイドン管弦楽団(Nimbus)。少し野暮ったさもありますが、優れた演奏だと思います。やり過ぎなぐらいにやっちゃっているのはトーマス・ファイ指揮のハイデルベルク交響楽団(Hanssler)。この上なく強烈に刺激的な演奏です。ということで、とりあえず重厚長大的なアプローチでは、鮮やかに「響き」を「交わす」音楽であるハイドンの真価にはなかなか触れづらいように僕には思えるのです。

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by ohayashi71 | 2015-06-15 21:49 | 本編

第37回:リゲティ/ハンガリアン・ロック

 あくまでも一般的に、という前提で言うのであれば、ピアノに比べるとチェンバロは馴染みが薄い楽器だろうと思います。でもたまたまなことですが、僕がこれまで関わった文化施設のうち、いくつかは備品としてチェンバロを所蔵していました。で、せっかくあるのだからそれを使った企画をやりましょう、という流れにもなりました。それで僕も何度かチェンバロに関わる企画を担当しました。普通にリサイタルもやりましたが、東京からチェンバロの製作工房の方を招いて楽器の仕組みを紹介するレクチャーを開催したこともあります。当然のことながら、そういうリサイタル等の実演の場面で演奏される曲目としては、チェンバロが最も華々しかった時代の音楽、例えばバッハ、スカルラッティ、ラモー、クープラン、といったバロック期やそれ以前の作曲家によるものが多かったように思います。
 確かにチェンバロはその後ピアノにその位置を取って代わられてしまいましたが、だからと言ってチェンバロのための新しい音楽が全く生まれなかった訳ではありません。20世紀になると、ピアノ(打弦楽器)とはまた異なるその独特な音色(撥弦楽器)を活かした作品も現われました。今回はそういう曲のことを。
 ハンガリー出身の作曲家、ジョルジ・リゲティ(1923~2006)は20世紀後半を代表する作曲家の一人です。彼はその創作活動の中でさまざまな書法を用いていますが、例えば半音以下の微分音まで使って奏でる音の塊による「トーン・クラスター(音の房)」、あるいはポリリズム、ミニマルといった表現による作品があります。面白く(もちろんマジメに)聴ける作品としては、特に「トーン・クラスター」の代表例と言える、そしてスタンリー・キューブリックの映画<2001年宇宙の旅>で使われたことでも知られている<アトモスフェール>(この映画ではリヒャルト・シュトラウスの交響詩<ツァラトゥストラはこう語った>の冒頭部分の方が圧倒的に有名でしょうが)は是非耳にしていただきたい音楽です。クラウディオ・アバドが行った現代音楽のシリーズ、「ウィーン・モデルン」の中で<アトモスフェール>をウィーン・フィルとやった演奏(DG)や、ジョナサン・ノット/ベルリン・フィルによる演奏(Teldec)などのディスクがあります。因みにレナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(Sony)や小澤征爾/読売日本響(ビクター/Tower)のディスクもありますが、ここでは置いときます。
 さて、チェンバロに話を戻します。リゲティには3曲のチェンバロのための曲があります。1968年に書かれた<コンティヌム>はチェンバロによるトーン・クラスター作品で、なかなか圧巻。でも僕がそれ以上によく聴いているのは1978年に書かれた<ハンガリアン・ロック>です。
 この曲は副題として「シャコンヌ」と記されており、そのとおり、速いテンポの8分の9拍子で左手で奏される4小節のフレーズが40回以上繰り返されます。しかも8分の9拍子ではありますが、1小節の中の割り振りとしては「2+2+3+2」になっており、要は「3+3+3」よりも複雑なリズムパターンを持っています。そして、右手は最初こそ1小節単位であったり、「2+2+3+2」に嵌るようなフレーズ(ハンガリー民謡風な)を放り込んできますが、次第に小節をまたぐようなフレーズの連続になったり、9拍子と並行して7拍子を当てていったりと、さながら音の洪水のような状態になっていくのです。それをチェンバロのあの音色でやるのですから(ピアノの、ある意味における自在さや明快さで無いことが重要なのですが)、聴き手は圧倒されてしまいます。チェンバロでここまで出来るのか、という意味で。最後はテンポを緩めてふーっと消えていくのですが、とても濃い5分間です。
 僕は<ハンガリアン・ロック>を冒頭に書いたチェンバロ企画の中で出来ないかな、と企んだことはありますが、残念ながら実現しませんでした。で、もしこの曲を聴いてみたいという方におススメするとすれば、この曲の初演者でリゲティから献呈されているエリザベト・ホイナツカのディスク(Erato/ワーナー)でどうぞ。と、言いたいところですが、これはちょっと入手が難しいかも。ホイナツカにはもう一つ別の録音(リゲティの鍵盤作品をまとめたもの/Sony)もありますが、僕はErato盤を愛聴しています。他にも何種類かディスクはありますが、リサイタルのライヴ録音として出ているマハン・エスファハニ(Wigmore Hall Live )を聴くといかに大変な曲か分かるはずです。またチェンバロからは外れてしまいますが、リゲティの作品をいろいろな自動演奏楽器で演奏したものをまとめている、まあマニアックなディスク(Sony)が出ており(愛聴盤ですが(笑))、そこで<ハンガリアン・ロック>はバレル・オルガンで演奏されています。遊園地とかにありそうな手回しのオルガンでやってみると、この曲はますます不思議な感じになり、それがまた面白かったりします。
 おまけ。ホイナツカは現代音楽におけるチェンバロ作品演奏の第一人者ですが、意外に皆さんが彼女の演奏を聴いたことのありそうなものとして、ギドン・クレーメルの名盤<ピアソラへのオマージュ(Hommage A Piazzolla)>(Nonesuch)を挙げておきます。その中の<ブエノスアイレス午前零時>に出てくるチェンバロのひんやりとした味わいと言ったら。

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by ohayashi71 | 2015-06-04 00:10 | 本編

第36回:ヒンデミット/ヴィオラ・ソナタ 作品11-4

 僕は学生時代の4年間はオーボエを吹いていましたが、今からもし新たに楽器を習うことが出来るのであればヴィオラにはとても興味があります。楽器を弾きこなすこと自体の難しさもさることながら、ト音記号やヘ音記号ではないアルト記号に慣れるのにも時間がかかりそうですけれど。

 ヴィオラが主役の名曲、と言うと僕の場合はまずこのシリーズでもご紹介したウォルトンの協奏曲を挙げたいですし、バルトークの協奏曲もしかり。アンサンブル作品で言えばブラームスの、クラリネットからの置き換え版となる2曲のソナタや三重奏曲、五重奏曲、あるいはショスタコーヴィチのソナタ等も素晴らしいと思います。

 そして忘れてはならないのはパウル・ヒンデミット(18951963)のヴィオラ・ソナタ作品11-4です。ヒンデミットは作曲家としては交響曲<画家マチス>や<ウェーバーの主題による交響的変容>といった管弦楽作品が知られていますが、演奏家としてはヴィオラの名手として活躍しました。僕にとって重要なのは、ウォルトンの協奏曲を初演したのがヒンデミットだったということです。実はウォルトンは初演者と目していたヴィオラ奏者に彼の協奏曲の演奏を拒否されており、その窮地を救ったのがヒンデミットでした。ヒンデミットとウォルトンの交友はこの後もずっと続き、ウォルトンは後に<ヒンデミットの主題による変奏曲>という管弦楽作品を書いています(ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団(Sony)の名演のディスクがあります)。

 さて話を戻してヒンデミットのソナタ。ヒンデミットのヴィオラ作品は協奏的作品やピアノとのソナタ、無伴奏のソナタなどがありますが、1919年に書かれた作品11-4のソナタが僕は特にお気に入りです。僕が初めてこのソナタを知ったのはタベア・ツィンマーマンのリサイタルの時。20年前のことです。その際にブラームスの2曲のソナタと共に演奏されたのがヒンデミットの作品11-4でした。

 それまでの僕のヒンデミットのイメージは上述した管弦楽作品から来ていて、それは良くも悪くも感情表現的というよりも音による運動表現や構成、あるいは音楽としての機能美を体現したもの、というイメージでした。彼の作品についてよく使われる言葉としては「新即物主義」とか「実用音楽」というものがあり、そういった言い方はヒンデミットの時代が例えばバウハウスのようなモダニズム文化が花開いた時代でもあったということを思い出させます。

 ところが、作品11-4のヴィオラ・ソナタはそういう僕のイメージとはだいぶ違う音楽でした。もちろん前述のとおり、ヒンデミットはモダニストとしてのイメージが一般的だと思いますが、このソナタについてはまだ19世紀的な、と言うか後期ロマン派的な表情も見受けられます。その意味での情感の豊かさは、例えば「幻想曲」と題されたこのソナタの第1楽章からも窺えます。8分の6拍子で穏やかに歌われる冒頭のフレーズがその後流れの中で5回現れるだけのことなのですが、ピアノの細やかな動きと相まって独特な渋色の空間が拡がります。

 第1楽章の「幻想曲」に休みなく続けられる第2楽章は「穏やかに、民謡のように飾らずに」と示された変奏曲です。緩急さまざまな変奏が4つ続いて音楽が高潮しきったところでまた休みなくそのまま第3楽章に入ります。最初の主題(A)は、キメる、というか歌舞伎で言うところの見得を切るような「タタター」というフレーズが印象的ですが、続く2つめの主題(B)はそのリズムを取り込みながら全く対照的な柔らかく叙情的な表情で出てきます。こうして(A)と(B2つの主題が出てきますが、それらは展開せず、第2楽章の変奏の続きがそこから再び現われます。変奏を2つ挟んでまた(A)と(B)が戻った後、通算7つめの変奏が終結部として奏され、力強く全曲を閉じます。

 構成をこう文章で書いていくと複雑そうかも知れませんが、各楽章のフレーズが関連していることと、構成中の緩急の付け方の巧みさが結果として全曲の流れを自然なものにしており、非常に聴きやすい作品になっているのではないかと僕は思っています。

 この構成に対するアプローチと、ヴィオラの音色、そしてピアノとのコンビネーションといった点から僕がいちばん好んで聴いているのは、現在ベルリン・フィルのソロ・ヴィオラ奏者を務めている清水直子とオズガー・アイディンによる2000年録音の演奏(Genuinです。

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by ohayashi71 | 2015-05-12 13:38 | 本編

第35回:ヴェルディ/歌劇<椿姫>

 僕が初めて買ったオペラのレコードはヴェルディの<椿姫>でした。中古LPでしたけれど。そして多分中学2年生か3年生の頃のこと。
 なんで<椿姫>だったのか。正直なところ理由は覚えていないのですが、有名な「乾杯の歌」が気に入っていたのかもしれません。華やかですし。とは言え、当時いくらブルックナーやマーラーの交響曲に少し親しんでいたにしても、2時間じっくりと、しかも英語ですらよく分からないのにイタリア語の歌唱だし、そもそも恋愛感情すらしっかりしていない中学生のガキに大人の人生の機微など分かるはずもなく。つまり、よく楽しむことが出来なかった。
 その後、高校1年の時の音楽の授業で映画仕立てになっていた<椿姫>を見せられても、やっぱりよく分からないままでした。因みにその時の音楽の先生は、今や国際的に活躍されている歌手の波多野睦美さんでした(波多野先生に教わったことは僕の自慢のひとつ。でもまあ僕は「不肖の弟子」みたいなものですが)。
 僕は学生時代を通じてオペラにはとうとうハマらないまま社会人になったのですが、最初の勤務先のホールであったモーツァルトのオペラの上演に関わってみて、ようやくオペラの面白さに気付くようになりました。それでもイタリア・オペラにはピンと来なかった。イタリア・オペラはオペラの王道なのでしょうが、そこに物語の筋についてガチのリアリズムを求めていたのです。メロドラマなんてもってのほか、ぐらいの勢いでしたから。だから当時向き合ってもいいなあ、と思っていたのはヤナーチェクの諸作だったりベルクの<ヴォツェック>ぐらいでしたかねえ。それはそれで非常に浅い捉え方だったし、偏ったものの考え方だったと思っています。
 それからまた年月が流れてみて、僕もそれなりに歳をとってきて、もちろんオペラ公演にも多少は接してみて、ようやくいろいろなオペラを楽しめるぐらいの心もちになってきました。
 そうなってみて改めて<椿姫>を眺めてみると、恋愛もの、特に悲恋もののオペラ作品として最高峰に位置付けていいんじゃないか、ぐらいに今は感じています。子供の頃には分からなかった、見えなかった、聴くことのできなかったもの、歌に載せて表される登場人物たちの心理描写の鮮やかなこと。3つの幕のどれもが無駄の無い素晴らしい進行だと思いますが、例えば第1幕。前奏曲、ヴィオレッタに紹介されるアルフレード、「乾杯の歌」、アルフレードの告白、一人になったヴィオレッタの心の乱れ、そして1幕最後の「ああ、そはかの人か」、「花から花へ」と、次から次へと「いい場面」が続いていくのです。
 さてディスク。<椿姫>に限らないことですが、主要な登場人物たちを歌う歌手も大事ですし、進行役を司る指揮者も大事。実際の公演のライヴ録音の方がより緊迫感はあるかも知れませんが、古いものは録音状態が気になりますし。そういった意味ではもろもろの条件について自分なりの納得できるラインを設定することになるのでしょうが、それも当然聴き手それぞれということで。
 実は僕がいちばん最初に買ったレコードはアントニーノ・ヴォットー指揮のミラノ・スカラ座、1962年録音のもの(DG)でした。ヴィオレッタがレナータ・スコット、アルフレードがジャンニ・ライモンディ、その父ジェルモンがエットーレ・バスティアニーニという配役。改めて聴いてみるとこの3人の立派なこと。録音当時28歳だったスコットの若々しい声は少し硬いものだったかも知れませんが、「花から花へ」なんかは完璧とも言えるぐらいの圧倒的な歌いっぷりだと思います。スコットは1980年にリッカルド・ムーティ指揮のフィルハーモニア管盤(EMI/ワーナー)でもヴィオレッタを歌っており、それはそれで優れていると思いますが、ちょっと風格があり過ぎるかなあと。
 マリア・カラスがヴィオレッタを歌ったディスクもいろいろと出ていますが、残念なのは大概録音状態がそんなにはよろしくないですね。僕が聴いているのはカルロ・マリア・ジュリーニがスカラ座を振った1955年のライヴ録音(EMI/ワーナー)。カラスの他に、ジュゼッペ・ディ・ステファノがアルフレード、バスティアニーニがジェルモンを歌っています。録音状態はともかく、ライヴならではの熱は凄いと思います。
 指揮、という点ではカルロス・クライバーとバイエルン国立管の1977年盤(DG/ユニヴァーサル)でしょう。ヴィオレッタのイレアナ・コトルバシュが可憐すぎるような気もしますが、アルフレードのプラシド・ドミンゴは素晴らしいですし、何よりもクライバーのニュアンス付けとドラマの流れ作りの巧みさは抜群です。
 他にもいろいろなディスクがありますが、今回はひとまずこの3つということで。
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(左からヴォットー盤、ジュリーニ盤、クライバー盤)
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by ohayashi71 | 2015-03-03 00:28 | 本編

第34回:ラモー/オペラからの管弦楽曲集

 前にマラン・マレ(1656~1728)の話をしましたが、今回はマレよりもひと世代下のフランスのバロック時代の作曲家のことを。
 ジャン=フィリップ・ラモー(1683~1764)が活躍した時代は、マレも仕えた「太陽王」ルイ14世とその後継者ルイ15世の時代にあたります。バロック期のフランス文化が最も華やかだった時代とも言えるでしょう。宮廷では娯楽としてばかりでなく、権威や権力の象徴として大がかりな舞台公演がしばしば上演されました。
 バロック・オペラというジャンルは近年になってようやく蘇演の機会も多くなってきてはいますが、モーツァルト以降のオペラに比べるとまだまだ接する機会は少ないと思います。僕にとってもバロック・オペラは敷居が高いジャンルです。それは主に旧約聖書やギリシア神話等を原作とした台本に対して抱く、現代人が普通に期待するであろう演劇性の違いであったり、そもそも上演時間の長さに耐えられなかったり、というところからです。
 まあ、その辺はかつての日本で考えれば、歌舞伎を通し狂言として丸一日かけて観るような感覚だったのでしょう。集中して作品を観続けるというより、劇場(芝居小屋)という空間や雰囲気そのものをたっぷりとゆったりと味わうものだったのかも知れませんね。その意味では、同じように上演時間が長いとは言え、ずっと集中を要求されるヴァーグナーの楽劇なんかとは捉え方が違う、という理解で良いのかなと。
 さて、ラモーに話を戻します。
 ラモーは40歳を過ぎてからオペラを手がけはじめ、結局30近いオペラを発表しました。前述のとおり、彼のオペラ作品の全曲上演もまだまだ進んでいませんが、僕には彼のオペラに含まれている管弦楽曲のCDでお気に入りのものがいくつかあります。いかにもバロック期らしい典雅さもさることながら、ラモーの場合、野趣に富んだと言えるぐらいの大胆な音楽表現を盛り込んでおり、その劇性が面白いのです。また、管弦楽の扱いが同時期のバッハ(16865~1750)やヘンデル(1685~1757)よりも、もっと近代寄りになっており、ヴォリューム的にも楽しく聴けるはずです。因みに、飛躍する言い方かもしれませんが、ラモーのこうした色彩感や劇的表現は後に登場するベルリオーズ(1803~69)にも繋がっていくものだろうとも思います。
 僕が愛聴しているのは、ラモー最後のオペラとなった<ボレアド>からの組曲を収めたフランス・ブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラのディスク(Philips)です。その中でも「コントルダンス」という小曲があるのですが、管弦楽ならではのダイナミクスの変化と、各楽器の響きを活かし、吹き上げるような勢いが音楽に与えられており、ワクワクさせられる一品です。そして、こうした表現は、ピリオド奏法でこそ更に面白味が出るものなのだろうと思います。
 ブリュッヘンはラモーのオペラからの管弦楽曲をまとめたCDをいくつか作っていますが、<ボレアド>が入っているものは、今は残念ながら入手しづらいようです。それでも有り難いことに近年はいろいろな古楽系の演奏家が同種のディスクを作っており、例えばマルク・ミンコフスキはルーヴル宮廷音楽隊を指揮して、ラモーの11のオペラから曲を集めた<サンフォニー・イマジネール(空想の交響曲)>というタイトルのアルバム(Archiv)を作っています。ここにも上述の「コントルダンス」は含まれていますが、ブリュッヘンのものとは違った手触りがあり、これも楽しいです。
 そしてもうひとつ挙げるとすれば、素晴らしいチェンバロ奏者でもあるクリストフ・ルセがル・タラン・リリクを指揮したラモーのオペラ序曲集(L’Oiseau Lyre/ユニバーサル)があります。
 オペラ全曲には手が出なくても、こうしたディスクで当時の王侯貴族の驚きや楽しみを追体験してみるのも一興かと。
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(左からブリュッヘン盤、ミンコフスキ盤、ルセ盤)
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by ohayashi71 | 2015-02-16 22:31 | 本編

第33回:シベリウス/交響詩<タピオラ> 作品112

 僕が初めて聴いたジャン・シベリウス(1865~1957)の作品と言うと、やっぱり交響詩<フィンランディア> 作品26でした。勇壮さと清澄さが分かりやすく置かれているので人気曲になるのも当然と言えば当然なのかも知れませんが、だからと言って僕はスッとシベリウス好きにはならなかったですね。
 本当に彼の音楽に興味を持てたのは大学2回生の時に交響曲第1番ホ短調 作品39をオケで実際にやった時でした。もっとも、僕は本番のステージではなくて、練習の時だけの代役でオーボエを吹いただけでしたけれど。それでもその間に僕はシベリウスの音楽の素晴らしさに強く惹かれるようになったことは事実です。シベリウスの交響曲第1番は、例えば同時代のグスタフ・マーラー(1860~1911)の最初の4つの交響曲ほどには神経質なぐらいの強烈な主張は無いかも知れません。それでも良い意味でのきめの粗さが情熱的なものとして捉えられ、かつ民族的な躍動感や叙情性が音楽に自然な流れを与えており、聴き手に強い共感と高揚感をもたらしてくれる作品だと思います。
 ということで、そこから僕はシベリウスの他の作品にも興味を持つようになっていきました。聴いてみると管弦楽作品はどれもこれも素晴らしい。7曲ある番号付きの交響曲はどれも個性的で面白いし、結構な数になる交響詩も曲の大小に関わらず優れたものが多いと思います(ヴァイオリン協奏曲ニ短調 作品47も当然名曲ですけれど)。だからここでとりあえずの1曲をどうしようと考えてみると、本当に決められなくて困りました。
 困った挙句で挙げてみるのは交響詩<タピオラ> 作品112です。<タピオラ>は1925年、シベリウスが60歳の年に完成しており、彼にとって最後の一連の交響詩の中で最後にあたる作品です。しかも彼はその後91歳で亡くなるまでほとんどまとまった作品を手がけておらず、<タピオラ>は彼のほぼ最後の作品と言ってしまっても良いぐらいの曲でもあるのです。
 タピオラはフィンランドの叙情詩<カレワラ>に登場する森の神であるタピオの土地という意味のようですが、シベリウスはそれまでに書いた<カレワラ>に基づく交響詩とは異なり、交響詩<タピオラ>では特に物語を描いた訳では無いそうです。だからここで表現されているのはイメージの中の森とその空気感ということになるのでしょうか。
 実際の作品はどうか。ここでそんなに多くの素材をシベリウスは用いていません。民族的な節回し(古い教会旋法にも通じる)の素材や主題的旋律は確かに存在はしていますが(それとても地味なものかも知れませんが)、それらが線的な(対位法的な)意味で曲の構成をがっちり支配している訳ではなく、それらは抑制されているけれど巧みな響きの変化(音色、音量)がもたらす劇的表現と結び付くことで独特な音空間を生み出しているのです。
 この音の空間。ある時はクリアで硬質なものであり、またある時は茫洋と、朦朧とした霧の壁のような響きでもあります。イメージの中の森と言いましたが、それをまた旋律に依らず響きの抽象性で描き切ることの凄さ。空気感を音で表す、という意味では飛躍してしまいますが、例えば街の雑踏や喧騒も含めて描いたチャールズ・アイヴズ(1874~1954)の<宵闇のセントラルパーク>(1906年)や、粒子の動きを顕微鏡で覗いたかのようなジェルジ・リゲティ(1923~2006)の<アトモスフェール>(1961年)等と同じカテゴリーに入れてもおかしくないぐらいの新しい音楽表現であったようにも思います。しかし、その意味でそれがシベリウスの臨界点であり、究極的な表現だったのかも知れません。
 さて<タピオラ>のディスク。どうしても<フィンランディア>とかの方が目立っていますが、数的には<タピオラ>も結構ありますし、優れた演奏も多いように思います。僕がいろいろ聴いた中ではレイフ・セーゲルスタム/ヘルシンキ・フィル(1994年録音)(Ondine)と、パーヴォ・ベルグルンド/ボーンマス交響楽団(1972年録音)(Warner Classics)といった辺りが特にぴったりとハマっています。
  ところで、<タピオラ>を聴いていて僕がふと思い出したのが長谷川等伯(1539~1610)の有名な<松林図屏風>です。シベリウスが描いたフィンランドの森とはもちろん違うけれど、何か相通じるような空気感がそこには漂っているような気がしてなりません。

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by ohayashi71 | 2015-01-06 01:40 | 本編

第32回:ショパン/スケルツォ第2番変ロ短調 作品31

 フレデリック・ショパン(1810~49)の曲でどれかひとつ、というのはとても難しいことです。僕が愛聴しているのは<舟歌>嬰ヘ長調 作品60や<幻想ポロネーズ(ポロネーズ第7番)>変イ長調 作品61といった彼の(早過ぎる)晩年に書かれた作品ですが、言うまでもなくその他にも名曲が多数。名演も多数。
 という前提でまた悩んで、かと言ってショパンをずっとここでやらないのもどうかと思うし。ということで、とにかくで今回挙げてみたのが<スケルツォ第2番>変ロ短調 作品31です。ショパンの作品中でも上から数えた方が早いであろう有名な曲を。
 暗いつぶやきと1小節の全休止。そしてオクターヴの上向きの跳躍を伴う決然としたフレーズ。この問答のような曲の始まりはとても印象的です。この変ロ短調の縦方向の動きに続いて、左手のアルペジオに乗って変ニ長調で旋律的な(=横方向の動き)フレーズが現れます。con anima(活気をもって)と指示されているこのフレーズが高まりff(フォルテッィシモ)に至る所までが最初の部分。これが大体同じように繰り返されると中間部に入ります。
 イ長調で叙情的に始まる中間部は、愁いを帯びた嬰ハ短調のフレーズで動き出し、ホ長調で軽やかに駆け回ります。この部分も同じように繰り返されます。そこから一気に音楽の表情は厳しいものに変わり、情熱の昂りが叩きつけるように激しく描かれていきます。
 それが収まって最初の部分が帰ってきます。コーダでは再び盛り上がりを見せて変ニ長調で終わります。
 少し曲のつくりにこだわってみましたが、演奏時間にして大体10分程度の独奏曲にしては感情的な起伏の移り変わりが大きいようにも思えます。「スケルツォ」は音楽的には、一般に「諧謔的な」とか「冗談のような」という感じの曲とされていますが、ショパンの場合はややこの定義からは外れている、と見做されることもあるようです。確かに「笑い」の要素は非常に薄いと思いますし、むしろ深刻さや悲愴感すら漂っているかもしれません。ただ、気分の移り変わりの激しさ、その幅の大きさといったもの自体が辛口の「諧謔」であり「冗談」であるのではないでしょうか。
 さて、そんな<スケルツォ第2番>のレコード。
 僕が最初に気に入ったのはマルタ・アルゲリッチの1974年録音盤(DG/ユニヴァーサル)でした。叙情的な表情をきちんと抑えつつ、でもそれ以上に圧倒的で奔放な表現がとても素晴らしいと思います。他にもこれまでにいろいろなピアニストの録音(実演も当然ありますが)は聴きましたが、僕の性にいちばんぴったり来るのはアルトゥーロ・ベネディッティ=ミケランジェリの1971年録音盤(DG/ユニヴァーサル)です。アルゲリッチが9分かからない程度で弾き切るのに対し、ベネディッティ=ミケランジェリは大体11分ぐらいかけています。その遅さは曲全体を平均的なテンポでずっと弾くのではなくて、フレーズの変わり目やその中で息を整え直すタイミングで少しテンポを揺らしており、そういうことも含めてその演奏時間を要した、ということです。また旋律に偏らない音量のバランス(アルゲリッチが偏り過ぎている訳ではありませんが)であったり、特に中間部の叙情的な部分での余りにも繊細に響かせる和音の美しさなど、聴きどころの沢山ある演奏だとも思っています。
 テンポの採り方や揺らし方、装飾音の扱いを含めた歌い回し、音の響かせ方など、ショパンの曲には単に音符を並べ切るだけでは済まない表現が絶対的に求められるように思いますが、そのさじ加減をひとつ間違えると曲自体が薄っぺらいものに聴こえてしまう危うさも隠されているとも思います。とは言え、そうした要素の組合せ方はさまざまですし、僕たち聴き手が求めるものや受け止められるものもさまざまです。<スケルツォ第2番>だと、若林の場合はベネディッティ=ミケランジェリがしっくりきているようだ、という程度に捉えていただければそれで良いと思います。

 余談。
 その昔、ショパンについて僕が大分の財団機関誌<emo>に書いた記事がまだネット上で生きているので、ご興味のある方はどうぞ。因みに何故かスケルツォについての記述が落ちていますので悪しからず。
http://www.emo.or.jp/emo/organ/backnumber/formerback/emo/backnumber/25/tokushu/index.html
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by ohayashi71 | 2014-12-19 23:40 | 本編


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