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第31回:シュミット/交響曲第4番ハ長調

 まだここでは取り上げていませんが、僕にとってアントン・ブルックナー(1824~96)の交響曲はとても大事な存在です。人生の上で、と言ってよいぐらい、にです。中学から高校の数年間は、毎日ブルックナーの交響曲のどれかのどこかの楽章を必ず聴いていました。その後、大学、社会人と年を経て、いろいろな作曲家の音楽を聴いて「あれもこれも」と思うようにはなりましたが、今でもブルックナーは別格であることには変わりありません。
 さて、その昔僕がまだ<レコード芸術>などという雑誌を購読していた時代だから高校生の頃だったのでしょうか、ブルックナーやグスタフ・マーラー(1860~1911)の交響曲の流れに繋がる作品としてフランツ・シュミット(1874~1939)というオーストリアの作曲家の<交響曲第4番ハ長調>について書かれている一文に出会いました。前田昭雄さんという音楽学者が書いたウィーン在住時代の思い出などを交えたエッセイのような文章で、その中でシュミットの<交響曲第4番>が出てきたのです。正確な表現は覚えていませんが、ウィーンの街を歩いている時に、ふとシュミットの交響曲の冒頭のトランペットの旋律が聞こえてくるようでちょっとした寒々しさを感じた、というようなことでなかったかと思います。
 シュミットはブルックナーがウィーンで教えた直接の弟子にあたる人物であり、マーラーがウィーン国立歌劇場の指揮者を務めていた時代にオーケストラでチェロ奏者を務めていたそうです。ドイツ後期ロマン派の時代にどっぷり生きた人物と言えるでしょう。そんなシュミットに、ブルックナー好きの僕は当然のように飛びつきました。
 前述の前田さんの文章の記憶があるうちのはずなので、僕は多分大学生の頃にはシュミットのこの交響曲のCDを手にしていました。それはズービン・メータ指揮のウィーン・フィルの演奏による1971年録音のもの(Decca/ユニヴァーサル)で、前田さんが挙げていたものもそれだったはずです。
 まず曲は大きく4つの部分に分けられますが、45分強の間、切れ目なく続きます。その冒頭が問題のトランペットです。アレグロ・モデラートのテンポで、22小節もの間完全にトランペット1本だけで旋律を吹き続けるのです。しかも、その旋律は虚ろで焦点の定まらない感じで半音階的に動きます。なるほど、これが19世紀末の風情を残す古色蒼然とした街並みの中で聞こえてくるのであれば、確かに哀しみを湛えた寒々しさが滲み出てくるように思います。
 そのトランペットの流れは全管弦楽に広まってやがて落ち着くと、今度は深い溜息にも似た旋律が現われます。最初の部分はこれら2つの旋律で息の長い音楽として進められます。第2の部分は更に憂いや悲しみの色合いが増し、絶望的で重々しい葬送のような感じになっていきます。第3の部分は、そこから一転して動きのあるスケルツォのような音楽ですが、あのトランペットの旋律も聴こえてきます。頂点に達したところで音楽は崩落し、最終部分として第1の部分が再帰してきます。最後は静かな弦の響きの上にまたトランペットが冒頭と同じ旋律を吹いて、静けさの中に帰って行きます。
 シュミットがこの交響曲を手がけたきっかけは一人娘に先立たれたためだったそうで、曲は1933年に完成されました。個人的な追悼としての音楽ではあるのかも知れませんが、僕はこの曲はもっと普遍的なレヴェルでの哀しみ、あるいは深い黄昏の色合いをも表した傑作であろうと思っています。因みに、シュミットの他の交響曲も知らない訳ではありませんが、正直なところ、第4番ほどの大きな存在ではないように思います。第4番の突出ぶりが異様なのです。
 さて、ディスク。そう多くはありませんが、やはりメータ/ウィーン・フィルは出色。音楽の大きなうねりが実に感動的なのですが、これはブルックナーやマーラーの名演を数多く聴かせてくれるウィーン・フィルだからこその演奏でしょう。ただし、今はCDでは入手しづらいかも知れませんが、i TunesとかAmazonのMP3であればいけるようです。
 その他に挙げておくとすれば、ヤコフ・クライツベルク指揮のオランダ・フィル(Penta Tone)とか。

f0306605_0404569.jpg(メータ盤)
 
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by ohayashi71 | 2014-12-01 00:41 | 本編

第30回:ヴィラ=ロボス/ブラジル風のバッハ第5番

 音楽を聴くことの喜びの一つは、美しいメロディに出会うことですね。
 もちろん、この場合の「美しい」の定義や趣味は人それぞれでしょうが、エイトール・ヴィラ=ロボス(1887~1959)の<ブラジル風のバッハ(バッキアーナス・ブラジレイラス)第5番>の第1曲<アリア(カンティレーナ)>の美しさには多くの人が共感するのではないでしょうか。
 ソプラノ独唱と8つのチェロのために書かれたこの曲は、静かに、しかしくっきりと流れ始める前奏に乗ってソプラノが歌い出します。しかし、最初は歌詞はありません。メロディをただ「アー」という発声だけで歌います。文字として書いてしまうと何の色合いも手触りも無くなってしまうので、そこをどうにかと思うと、もの悲しさと神秘さを湛えた抑揚に富んだメロディの美しさと言ったら、という感じ。
 ソプラノがひと節歌い終わると、今度はチェロが同じメロディを繰り返します。その後、今度はソプラノが歌詞のある新しいメロディを歌い出します。夕暮れ時に空や大地、海、月といった自然が見せる夢のような美しさ、そしてその美しさゆえについ覚えてしまう不安さにも似た感情。大雑把に言えばそんな意味のことが詠嘆的に述べられていきます。その大きなヤマを越えると、最初のメロディが戻ってきますが、それは今度はハミングで歌われます。演奏時間にして大体6分半から7分ぐらいの曲なのですが、心の琴線に触れる音楽、というのはこういう曲のことではないかと。
 さて、続く第2曲は<踊り(マルテロ)>。第1曲とは打って変わって軽快で活き活きとして伸びやかな曲です。第1曲が陰だとすれば第2曲は陽気さそのもの。でもこの2つを並べて(続けて聴いて)違和感が無いのは、二曲一双の屏風のようなものだからなのでしょうか。
 さて、この<ブラジル風のバッハ第5番>は、前述したメロディのとびっきりの美しさのためなのでしょうが、全部で1000曲を超えるとも言われるヴィラ=ロボスの作品の中で、恐らく世界的に最も知られている作品だろうと思います。なので、レコードも結構出ています。その中でどれかを選ぶのは僕にとっては結構難しいことです。曲自体、メロディ自体がとても素晴らしいので、余程技術的にダメでない限り、また感情過多になり過ぎた歌い方(チェロのアンサンブルも含め)をしない限りは、それぞれの演奏に魅力を感じてしまうからです。そこから先はソプラノ歌手の声質の好みであったり、チェロのヴィブラートのかかり具合の好みであったり、ということぐらいしか僕には言えません。
 ビクトリア・デ・ロスアンヘレスがヴィラ=ロボス自身の指揮(フランス国立放送管)で歌った1956年のモノラル録音(EMI/ワーナー)マディ・メスプレとポール・カポロンゴ指揮(パリ管)の1973年録音盤(EMI/ワーナー)マリア・バーヨとエマニュエル・クリヴィヌ指揮(リヨン国立管)の1994年録音盤(Erato/ワーナー)といったCDをはじめとしてもろもろ。
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(ロスアンヘレス盤とバーヨ盤)
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by ohayashi71 | 2014-11-02 22:42 | 本編

第29回:ビーバー/パッサカリア

 ステージ上に居るたった一人の演奏家の演奏と向き合う、というのは聴き手にとっても結構な緊張を強いられるものだと思います。たとえこっちが一方的に聴く側であるにしても、です。演奏家たった一人が作品と真正面から向き合って、ぶつかって、たった一人でその作品の楽譜に織り込まれているであろう音の拡がりをその会場いっぱいに改めて解き放っていかなければなりません。そして、その孤独な作業が招く緊張感であったり、結果的に生じる気迫といったものは奏される音に乗って、その場に居る全ての人の耳と心を等しく突き刺します。優れた演奏家ほど、その突き刺す威力は大きいのだと思います。多分、この感覚はピアノよりも弦楽器や管楽器の独奏に接した時の方がより強いのではないでしょうか。
 だから、例えばヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の<無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ>であったり、<無伴奏チェロ組曲>を聴くのは、少なくとも僕にとっては気軽さは無いですね。でもその代わりに聴き終わった後に必ず訪れてくれる静かな、深い喜びのために。
 バッハの<無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV.1004>の最後に置かれた有名な<チャコーナ(シャコンヌ)>は、単に演奏に要する時間の長さ(12~16分)だけでなく、たった一挺のヴァイオリンでこんなにも美しい音空間を描き出せるのかという意味でも巨大な存在です。そしてバッハ自体の大きさ。本当に大好きな1曲です。その昔、ギドン・クレーメルがリサイタルで弾いた<チャコーナ>単独の演奏が凄かったことは今でも覚えています。
 さて、バッハの無伴奏作品が余りにも偉大な分だけ、特に彼以前の無伴奏作品にはまだまだ光がよくは当たっていないのではないかとつい思ってしまいます。まあ僕が不勉強なだけなのかも知れませんが。という流れでハインリヒ・イグナツ・ビーバー(1644~1704)の<パッサカリア>を。
 ビーバーはバッハからするとおじいさん世代にあたる音楽家で、ザルツブルクの宮廷楽長などを務めました。またビーバーは当時のオーストリアやドイツで最も優れたヴァイオリン奏者だったとも言われています。彼はさまざまな技巧を凝らした器楽作品を手掛けていますが、特にヴァイオリンにスコルダトゥーラと呼ばれる奏法をしばしば取り入れていることでも知られています。普通、ヴァイオリンは低い方の弦からG-D-A-E(ソ-レ-ラ-ミ)という音で、開放弦の時の音を調弦しますが、それを別の音に合わせることによって通常は弾きにくい音の組み合わせや繫がりを容易にすること、それをスコルダトゥーラと言います。特殊奏法という程では無いのかも知れませんが、とにかくヴァイオリンの表現力を高めるためのひとつの工夫であったことは確かです。
 さて、今回ご紹介しようとしている<パッサカリア>は、15曲のソナタ集と合わせて<ロザリオのソナタ>という、1676年頃に出版された聖母マリアの生涯の秘蹟を讃えた大きな曲集に含まれている曲です。ソナタの方は全てヴァイオリンと通奏低音のために書かれていますが、曲集の締めくくりに置かれた<パッサカリア>は無伴奏のヴァイオリン1挺だけで演奏されます。また、最初のソナタとこの<パッサカリア>は通常の調弦で扱われていますが、それ以外のソナタは全て異なる調弦が指定されています。
 前にマレの<聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘>をご紹介した際に、ひとつの音型が何度も繰り返し続けて出てきて、その上にさまざまなフレーズを飛び交わせて行く音楽だ、という感じで書いたと思いますが、<パッサカリア>も基本的には同じようなつくりの音楽です。ただ、このビーバーの<パッサカリア>はそれを一人のヴァイオリン奏者だけでやるのです。荘重なテンポではあるにしても、少なくとも重音は当たり前になってきますし、フレーズと技術とがせめぎ合いながらもそれを音楽的な表現として整える必要もあります。8分の6拍子、ト短調。演奏時間にしておよそ9分前後。その間ずっとG-F-E-D(ソ-ファ-ミ-レ)という下行の音型が65回繰り返されます。
 色合い的にはモノトーンな音楽なのでしょうが、韻の踏み方がひたすら美しい詩のような清澄さが心を打つ音楽であると思えます。僕は残念ながら、祈りや信仰というものには縁の薄い人間ですが、ビーバーの<パッサカリア>にはそういった真摯さ(と、その美しさ)を感じずには居られません。 
 この<パッサカリア>がバッハの<チャコーナ>に直接影響を与えたかどうかは定かではありませんが、並べてみると少なくとも音楽的には近しい関係があるように見えると思います。そういう視点のCDとして寺神戸亮が2003年に録音した<シャコンヌへの道>(Denon/コロムビア)というアルバムはとても素晴らしいですね。ビーバーの他にも17世紀に生まれた無伴奏ヴァイオリンのための作品ばかりを集め、そして最後にバッハの<チャコーナ(シャコンヌ)>を置いており、まさにタイトルどおりのアルバムになっています。単に資料的な側面だけでなく、様式や時代精神の繫がりを明らかにしているという意味合いでも重要なアルバムだと思います。
 それから<ロザリオのソナタ>全曲だと、僕はジョン・ホロウェイ(ヴァイオリン)、デヴィット・モロニー(チェンバロ)にトラジコメディアが通奏低音として加わっているVirgin盤を聴いています。
f0306605_048277.jpgf0306605_0482297.jpg(左:寺神戸盤、右:ホロウェイ盤)
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by ohayashi71 | 2014-10-25 00:49 | 本編

第28回:ボロディン/交響曲第2番ロ短調

 アレクサンドル・ボロディン(1833~87)の曲、と言った時、最初に挙げられるのは何でしょうね。
 未完に終わった歌劇<イーゴリ公>に含まれている<ダッタン人の踊り>や<ダッタン人の合唱>なのかも知れませんし、交響詩<中央アジアの草原にて>なのかも知れません。どちらにしても親しみやすいエキゾチックな雰囲気が非常に魅力的な音楽だと思います。
 と、ここまでがありふれた前フリ。
 ではまずボロディンの生きた時代のことから。
 学校の音楽の授業のレヴェルだとボロディンは「ロシア5人組」の一人として紹介されます。5人、と書いたら他の4人についても一応。指導的立場にあったミリー・バラキレフ(1837~1910)、<展覧会の絵>のモデスト・ムソルグスキー(1839~81)、<シェエラザード>のリムスキー=コルサコフ(1844~1908)、それとセザール・キュイ(1835~1918)の4人です。まあバラキレフやキュイの曲は日頃あんまり聴く機会は無いと思いますけれど。しかし実際には「5人組」と一括りにしてしまえる程、5人ともずっと同じ方角を向いて音楽を書いていた訳ではありません。確かに、西欧の亜流とは違うロシアの民族的要素に根ざした音楽の創作を目指してはいたのでしょうが、その距離感の違いが実際の作品を聴いていくとかなり現われていることは分かると思います。ムソルグスキーとリムスキー=コルサコフの作品についてはまた改めて触れるつもりですが、この2人の代表作を並べてみるだけでも随分違います。
 それから「5人組」とは一線を画す位置に居たのがピョートル・チャイコフスキー(1840~93)。彼はバラキレフとも交流はありましたが、当時のロシアではチャイコフスキーの音楽は「西欧風」と看做されることもあったようです。今ではちょっと想像しがたいことですけれど。とにかくこのように作曲家名を列挙していくと当時のロシア音楽界の勢いが分かると思います。
 さてボロディンについて。彼の生前の本業は音楽ではなくて化学の研究者の仕事でした。しかも彼は研究者としても一流だったそうで、その多忙さのせいで十分に音楽活動を行うための時間を作れませんでした。なので、ボロディンが遺した作品の数は決して多くはありませんし、<イーゴリ公>や交響曲第3番のように未完成のままになってしまった作品もあります。
 ボロディンの音楽は、メランコリックさよりも大らかさの方が表に立った豊かな叙情性に裏打ちされた美しい旋律と、中央アジア系の音楽にも通じるような生気溢れる勇壮さが、簡潔な構成の中にバランス良く盛り込まれているように思います。
 その意味で僕が彼の代表作として挙げたいのが交響曲第2番ロ短調です。1877年の初演では必ずしも好評ではなかったようですが、その後の演奏で成功を収めています。4つの楽章から成りますが、いちばんインパクトが強いのは第1楽章の第1主題でしょう。「H-H-C-E-Dis-H-D-H(シ-シ-ド-ミ-レ♯-シ-レ-シ)」というクセの強い音の並びが、「タ-タ-タ-タ-タ-タ-タッ-ター」というこれまた独特なリズムで奏されるのです。美しい第2主題も素晴らしいのですが、第1楽章全体でしつこいぐらいに繰り返される第1主題の印象の強さと言ったら! 後にこの第1主題はフランスのモーリス・ラヴェル(1875~1937)たちのお気に入りになって、彼らの芸術グループのテーマソングにもなったそうです(ドアのノックのリズムがこれだったとか)。
 情緒の連綿とした移り変わりであったり、心理ドラマとしての交響曲ではなくて、民族的な生のエネルギーを交響曲という「器」に収めてみたらこうなりました、という感じの音楽と言っても良いのかも知れません。この作りは、ロシアで言えば後のアラム・ハチャトゥリアン(1903~78)の交響曲(3曲あって、これがなかなか面白いのですよ!)に通じるようにも思います。
 さてCD。豪胆さと叙情性を、テンポ、リズムの扱い、響きといった要素の中でバランスよく描くというのは意外に難しそうです。僕の愛聴盤はアルメニア出身の指揮者、ロリス・チェクナヴォリアンが1977年にナショナル・フィルを振ったもの(RCA/BMGビクター)。勢いという意味で面白かったのはカルロス・クライバーとシュトゥトガルト放送響の1972年ライヴ(Hänssler)、重量感で言えばキリル・コンドラシンとアムステルダム・コンセルトヘボウ管の1980年ライヴ(Philips/ユニバーサル)というところでしょうか。
 ところでこの交響曲と並んでボロディンの代表作として知られている弦楽四重奏曲第2番ニ長調という作品がありますが、こちらは叙情と旋律美が魅力的なもの。今度(10月18日(土))冨士屋さんである<クァルテット・エクセルシオ>の演奏会で取り上げられるそうなので、機会のある方は是非。
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(左からチェクナヴォリアン盤、クライバー盤、コンドラシン盤)
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by ohayashi71 | 2014-10-01 01:10 | 本編

第27回:カラヤン<フィルハーモニア・プロムナード・コンサート>

 楽しいやつを。
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89)という名前は、彼の生前であればクラシック好きでなくても広く知られていたはず。学校の音楽の教科書とかでも、オーケストラとか指揮者の代表例としてカラヤンとベルリン・フィルの写真なんかが載っていましたし。僕がクラシックを聴き始めたのが1980年代の前半でしたから、ギリギリで彼の最晩年の活動にリアルタイムで少し触れることが出来たかな、という感じです。まあ、来日公演なぞとても行けませんでしたし、そもそも僕の年頃では本当の凄さは少しも理解できなかったのでしょうが。
 それでも、カラヤン最後の来日公演(1988年)の模様は確かNHKのFMで生放送されましたし、僕はそれを聴いていた記憶があります。因みに、サントリーホールで行われた3つの演奏会は数年前にCD化されており、それらは今聴いてもとても立派な演奏だと思います。前後しますが、1987年の元旦のウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートはカラヤンが指揮台に立ち、その模様もNHKで観ていましたね。それも現在ではDVDやCDで鑑賞できますが、カルロス・クライバーの2度のニューイヤーと並んで(向いている方角はだいぶ違いますが)、素晴らしい演奏だと思います。
 ただ、1989年の春にカラヤンはベルリン・フィルを辞めてしまいましたし、夏に突然この世を去ってしまいました。当時京都で学生をしていた僕は、祇園祭の山鉾巡行を観に行くつもりだった日の新聞の朝刊でカラヤンの訃報を知り、とにかく驚いたものです。
 と、書いてはきましたが、基本的に演奏に関する感想は全部後付け。僕が本当の意味で「すげえな、カラヤン!」と最初に思ったのは、彼がフィルハーモニア管弦楽団と1960年に録音した<プロムナード・コンサート>というアルバムを聴いた時でした。1994年ぐらいのことでしょうか。
 まず曲目。全部で9曲。
 ・ワルトトイフェル/スケーターズ・ワルツ Op.183
 ・ヨハン・シュトラウス2世/トリッチ・トラッチ・ポルカ Op.214
 ・ヨハン・シュトラウス/ラデツキー行進曲 Op.228
 ・シャブリエ/狂詩曲<スペイン>
 ・シャブリエ/楽しい行進曲
 ・ヨハン・シュトラウス2世/ポルカ<雷鳴と電光> Op.324
 ・スッペ/<軽騎兵>序曲
 ・ヴァインベルガー/<バグパイプ吹きのシュヴァンダ>~ポルカ
 ・オッフェンバック/<天国と地獄>序曲
 アルバムのタイトルどおり、ポピュラーなオーケストラ曲集ですね。ま、脈絡が無いと言えば無いのかも知れませんが。でも「お楽しみ」という意味では一貫しているとも言えるでしょう。
 で、聴くと実際に堂々たる立派な「お楽しみ」になっているのが素敵なのですよ。演奏会とかだと前プロ(大体1曲目とか)だったり、アンコール曲の扱いではあっても、決してメインにはならない曲たちだと思います。しかし、メインにならないからと言ってつまらない音楽であるなんてことも有り得ません。その一方で、心弾むような作品なのに、演奏がおざなりであっては魅力は半減です。
 そこが、さすがカラヤン。ウィーン風だとかフランス風だとかのある種の漠然とした色味や味わい(この場合、のんびりさ加減、と言い表した方が良いのかも知れませんが)よりも、テンポの手綱をしっかり掴んで、かつ、きっちりとオーケストラを鳴らし切る方を優先しており、結果的にその指向が曲たちの名曲度合いをひとつ上げたような印象を受けます。そして、その「ひとつ上がった」という感覚が爽快な「お楽しみ」に繋がっているのです。
 ところで、長年EMIレーベルで扱われてきたこのアルバムですが、EMIがワーナーミュージックに数年前に吸収されたばかりのせいか、ちょっと入手しづらくなっているのが残念なところです。今は少々お値段の張るSACDが現行盤のようですが、i Tunesならもう少しお手軽のようです。
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by ohayashi71 | 2014-09-01 01:14 | 本編

第26回:ライヒ/ディファレント・トレインズ

 何がきっかけだったかは忘れましたが、僕が初めてスティーヴ・ライヒ(1936~)のCDを買ったのは大学の1回生か2回生だったはずです。ものは<六重奏曲>と<6台のマリンバ>が収録された1枚。「現代音楽」の中でミニマル・ミュージックと呼ばれるスタイルの代表的作曲家とされるライヒですが、多分、CDを買った時にはミニマルの意味すらよく知らないまま手を出したような。
 でも気に入ったのですね。それ程複雑そうではないフレーズをひたすら繰り返しながら少しずつ変化を付ける、あるいは新たなパターンを乗せていくことを基本として曲を作り上げていくミニマル・ミュージックは、僕がそれまで聴いていたようなクラシック作品とは全く違う発想から生まれてきたものだ、ということは直ぐに分かりましたし、またそれがとても新鮮な(場合によっては、その単調さから来る感覚も含めての)響きであり音楽に思えたのです。素材の展開技術や、和声の法則性を伴う形式感に基づいた構成から生まれるドラマに比べると、もっと硬質でストイックなドラマと言った方が良いのかも知れません。まあ、とにかくこの感じは聴いていただくしかない、と思うのです。
 少し余談を。その昔、大分で働いていた時に「現代音楽」を専門にするアメリカの弦楽四重奏団、クロノス・クァルテットを招聘するチャンスがありました。今の大分ではそういうチャレンジ企画を行う空気は薄くなっているようにも見えますが、とにかく10数年前の大分には短期間ながらそれを出来る環境があったのです。で、僕がこの時、クロノスを呼びたいと思った理由のひとつは、プログラムにライヒの新作、<トリプル・カルテット>が含まれていたからで、そのライヴが日本初演に当たるからでした。当時、このクロノスのライヴ自体、残念ながら大分的にはあんまり話題にはなりませんでしたが、その新作を聴くためにわざわざ他県からもお客さんが来ていたのを覚えています。
 さてクロノスのライヴをやれるとなった時に、新作の<トリプル・カルテット>はともかくとして僕が本当は演奏して欲しかった曲があります。それはライヒの<ディファレント・トレインズ>という曲でした。<トリプル・カルテット>と同様、クロノスのために書かれ、1989年にグラミー賞を受賞した曲で、やはりクロノスがCDを作っていました。
 <ディファレント・トレインズ>は、弦楽四重奏と予め録音されたテープのための作品です。テープには更に2群の弦楽四重奏と、何人かの人の声、列車が線路を走る音、汽笛、それとサイレンの音が含まれています。しかも実演では生音とテープがちゃんと同期しないといけない作りになっています。これはまさに「現代の」弦楽四重奏曲の在り様のひとつです。
 そしてこの設定でライヒが描いたのは、さまざまな汽車(ディファレント・トレインズ)の走るさまを全体の基調としながら、「第二次世界大戦前のアメリカ」「第二次世界大戦中のヨーロッパ」「大戦後」でした。
 列車が線路を走っているかのような音のパターンが延々と続く中、やがて人の声が聞こえてきます。ただしそれらは文章としてでは無くて、単語やフレーズのレヴェルの短さで切られ、かつ繰り返されます。そして話し手が変わる、あるいは単語やフレーズが変わると音楽の方のパターンも変わります。むしろ音楽の変化に声を合わせているのかも知れませんが。更に、そういう人の声を音の高低に当てはめ、弦楽器でもその音型を模します。ちょっと説明としては下手で分かりづらいとは思いますが、まあ大きな作りとしてはこういう感じです。
 「大戦前のアメリカ」では「シカゴからニューヨークへ」とか「ニュヨークからロスアンジェルス」「1939年」「1940年」「1941年」といった言葉が聞こえてきます。年が下っていくに従って音楽のテンポが上がり、緊張感も次第に増していきます。それに続いて第2部にあたる「大戦中のヨーロッパ」に入りますが、そこでは始終サイレンの音が響き渡っています。そして聞こえてくる言葉は「ドイツ軍がオランダに」とか「ハンガリーに侵入してきた」、「黒いカラスが長年我が国を侵してきた、と彼は言った」、「早く行けと彼女は言った」、「4日4晩」「それから私たちは奇妙な名前の場所を通っていた」、「彼らは人々を分けた」、「炎が空に上がって行った」といったもの。これはヨーロッパで起こったホロコーストについての証言から取られたものです。
 静かに第2部が閉じられると第3部「大戦後」が始まります。「戦争が終わった」、「それは本当?」という声に続いて、再び第1部の「ニュヨークからロスアンジェルス」をはじめとしたいくつかの声が聞こえてきます。しかし、それは単に第1部の再帰や再現ではありません。「でも今となっては全部昔のことさ」という声、そして最後に「声のきれいな一人の女の子が居た」「彼らはその歌声を聴くのが好きだった」、「彼女が歌うの止めると彼らは言った、『もっともっと』。そして彼らは拍手した」という声に合わせた音楽で全曲は閉じられます。
 直接的に、あるいは描写的に戦争の惨禍を表現したというより、それによって失われたもっと大きなものの存在を、ライヒは列車の音(音楽)と断片的な声によって浮かび上がらせたのだと思います。全曲の最終部分の閉じ方に美しい詩情があるからこそ、却って痛々しさを覚えるのです。
 ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906~75)の交響曲や弦楽四重奏曲のような音楽による直接的な「時代の証言」も僕たちは永久に大切にしなければなりませんが、その上でライヒの<ディファレント・トレインズ>のような「記憶を伝えるための表現」も重要だろうと僕は信じています。
 演奏や録音は決して簡単ではない作品なのでしょうが、「現代曲」としては比較的録音に恵まれており、いくつかのCDが出ています。その中ではやはり初演者クロノス・クァルテット(Nonesuch)を最初に挙げるべきでしょうし、この曲についてもディオティマ弦楽四重奏団(naive)は優れた演奏だと思います。
f0306605_0331671.jpgf0306605_0325862.jpg(左:クロノス盤、右:ディオティマ盤)
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by ohayashi71 | 2014-08-16 00:35 | 本編

第25回:シューベルト/弦楽五重奏曲ハ長調D.956 Op.163

フランツ・シューベルト(1797~1828)の音楽が本当に「いいなあ」と思えるようになったのは、僕は20歳前ぐらいじゃなかったかと思います。スヴャトスラフ・リヒテルの弾いたピアノ・ソナタ第13番イ長調 D.664と第14番イ短調 D.784が1枚に収められたCD(ビクター)がきっかけでした。それは1979年にリヒテルが来日した際の演奏会のライヴ録音だったそうですが、それは繊細で、かつ深みのある美しさ(恐ろしいほどの)に溢れており、それまでシューベルトの音楽にピンと来ていなかった僕の目(耳)を覚ましてくれたディスクでした。そんな素晴らしい(凄い)演奏なのですが、現在何故かこの音源は国内盤としては取り扱われておらず、Musical Conceptsという海外のレーベルで出ているようです。
 シューベルトの音楽の素晴らしさ、というと、まずはその親しみやすい旋律の数々が真っ先に思い起こされるでしょう。もちろんその美しさは大変な魅力です。しかし、歌曲にしてもただ美しい旋律を連ねただけではシューベルトにはならないと思います。音楽と詩が一体となることで生まれる迫真のドラマ、心の深層の抉り出し、ロマンティックな情景への想起、そういったものものまで多くの場面で到達しているのがシューベルトの音楽なのではないでしょうか。旋律美は当然挙げなければなりませんが、更に巧みであったり予想外な転調とか、極端なまでの音楽の表情の変化(さっきまで穏やかに微笑んでいたのに、次の瞬間何か恐ろしいものに直面したかのような表情になるとか)もそこにはあります。
 「未完成」と呼ばれる彼の交響曲ロ短調 D.759(以前は第8番という表記が一般的でしたが、最近は第7番とされることも多いようです)なんか、そう思って聴けば相当に「怖い」曲ですよ。美しさの裏側、というよりその直ぐ横にある大きな暗い影を認めないことには始まらないと僕は思うのです。でも、これがロマン派、ロマン主義と呼ばれる音楽たちの根っこに近いものでもあるのではないでしょうか。
 シューベルトが「未完成」となったその交響曲をとりあえず書いたのは1822年ですから、彼がまだ25歳の年のことです。若さから来るナイーヴな感覚は僕たちのような現代人にも理解できなくはないはずですが、シューベルトのその研ぎ澄まされようはどうでしょう。同じ頃に50歳代に差し掛かりつつあったルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の音楽の凄みとはまた違ったものがあるように見えやしないでしょうか。
 シューベルトのそうしたナイーヴな凄みは1828年に彼が亡くなる年までずっと現れ続けます。というか、それはひたすら右肩上がり的な傾向すらあるようにも思えます。最後の3つのピアノ・ソナタ(第19番ハ短調D.958/第20番イ長調D.959/第21番変ロ長調D.960)なんかは本当に。
 そして彼が生涯にただ1曲だけ書いた弦楽五重奏曲(ハ長調D.956)もやっぱりそういう音楽です。死を目前にした19世紀の若者が眺めていた世界の美しさとむごさ。第1楽章だけでおよそ20分かかり、全曲だと1時間近くかかる大作で、ほとんど交響曲のようなスケール感も漂います。明朗な表情はどこまでも明朗に、しかしひとたび葛藤や孤独感の領域に足を踏み込むとどこまでもそのまま追い込まれそうなぐらいの感覚。A-B-Aという形式で書かれた第2楽章のBの部分、Aの部分の静寂さを唐突に破るように置かれたこの中間部分の痛切さは一体何と言えば良いのでしょうか。
 またハンガリー風の旋律を第1の主題とするソナタ・ロンド形式の第4楽章は、中間の展開部分で少し緊張感を出しますが、本当の高揚はコーダにやってきます。ハ長調の和音をそのまま力強く打ち込んで終わるかと思いきや、最後の小節で主音のドを全員で弾き出す前にそれより半音高いレの♭が前打音として付けられています。この強烈なアクセントが聴き手にもたらす熱は何か。
 シューベルトの器楽作品は一歩間違えたアプローチをするととんでもなく退屈な音楽になってしまうのですが、この弦楽五重奏曲について言えば僕はいくつか愛聴盤と呼べるようなディスクに接しています。ピリオド楽器のアンサンブルであるラルキブデッリ(Sony)や往年の名カルテット、ラサール弦楽四重奏団にチェロのリン・ハレルが加わったもの(DG/ユニバーサル)あたりはそういう存在ですが、最近の演奏で言えばフランスのディオティマ弦楽四重奏団にチェロのアンヌ・ガスティネルが加わったもの(naive)が素晴らしいと思います。
f0306605_074518.jpgf0306605_08612.jpg(左:ディオティマ弦楽四重奏団による弦楽五重奏曲、右:リヒテルのソナタ集の現行盤)
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by ohayashi71 | 2014-08-02 00:09 | 本編

第24回:早坂文雄/映画<羅生門>の音楽

 黒澤明(1910~98)と言えば日本を代表する映画監督ですが、彼は自分の作品の中での音楽にもかなりこだわりを持っていたそうです。そのため音楽を担当した作曲家とケンカ別れ、ということもありました。<どですかでん>と<乱>を手がけた武満徹(1930~96)がそうですし、<どん底>や<用心棒>、<椿三十郎>、<赤ひげ>といった1950年代から60年代にかけての黒澤映画の音楽を担当した佐藤勝(1928~99)も<影武者>の制作時に考えの違いから降板しています。
 黒澤のこだわり、と最初に書きましたが、彼の音楽についての注文は「この場面には○○風の曲を付けてほしい」という言い方だったようです。因みに○○の部分には作曲家名や楽曲名が具体的に入るのです。この「○○風」というのが面倒なところで、だったらそのまま○○でいいじゃないか、と相手は普通思うはずなのですが、黒澤はあくまでもそのものではなくて「○○風」と言って押してくるとのこと。そりゃあケンカするはずです。
 さて、佐藤勝よりも前の時期、即ち1940年代から50年代にかけて黒澤映画の音楽を何作も手がけた作曲家が居ます。それが早坂文雄(1914~55)です。早坂は<ゴジラ>で有名な伊福部昭(1914~2006)と共に活動をしたこともありますが、僕にとっては清瀬保二(1900~81/宇佐市出身)や武満との繫がりの方が重要だったりします。まあその辺りの話は長くなるので今日は省略。
 早坂は若いうちに亡くなっていますが、彼は1930年代から50年代の日本の作曲界をリードしただけでなく、映画音楽の分野でも大きな足跡を遺しました。溝口健二や成瀬巳喜男など往年の巨匠監督とも組んでいますが、やはり黒澤とのコンビが最も重要なのではないでしょうか。二人は1948年の<酔いどれ天使>から55年の<生きものの記録>まで全部で8作で組んでいますが、音楽という点から言えばまずは<七人の侍>と<羅生門>だと思います。
 特に<羅生門>。芥川龍之介の<藪の中>を下敷きとして、1950年に三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬などの出演により制作・公開されたこの作品は、日本国内での評価はいまいちでしたが、翌年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞やアカデミー賞の名誉賞(外国語映画賞)などを受賞するなど、国際的に圧倒的な評価を得て「世界のクロサワ」への第一歩としての作品ともなりました。
 そして早坂の音楽。上にも書いたとおり、黒澤はここでもいろいろな注文を早坂に出したようですが、最も重要な場面である真砂(京マチ子)の証言の場面で、彼は「ボレロ風の音楽を」と言ったようです。このボレロはラヴェルの<ボレロ>のことです。証言しながら煩悶が高まっていく真砂の様子を強調する、あるいは象徴する演出効果の一部としての音楽は「ボレロ風」であるべき、と黒澤は考えたのでしょうか。
 恐らくそういった意向を受けての早坂による「ボレロ風」の音楽。場面の時間にして約10分。ラヴェルが繰り返しの中で描いた熱狂とは異なり、怨みや悲しみや憤りといったドロドロとした表情すら浮き上がってきそうなぐらいの情念のボレロだと思えてきます。普通のオーケストラよりも制約のある楽器編成で書かれているようですが、明るく華麗な響きを求めない曲調的にはそれで十分だったのかも知れません。日本的な、アジア的な湿度の高いボレロ。僕は好きですねえ。
 DVDを観ていると、当時の録音状態の貧しさも手伝って、どうしても京マチ子をはじめとする役者陣の演技の方がより強く印象に残る場面かも知れませんが、ぜひ音楽にも注意を払ってください。もちろん、その場面以外にも冒頭や最後に現われる雅楽風の響きや、真砂の妖しい美しさを表すような音楽など全編を通じて聴きどころも多い映画だと思います。
 ということで<羅生門>の音楽を聴くとすれば映画のDVDをまずは挙げるべきなのでしょうが、この音楽の充実ぶりから管弦楽のための組曲風に扱ったCDも出ています。僕が最初に買ったのは佐藤勝(彼は早坂の弟子でもありました)が指揮したCD(<七人の侍>の音楽との組合せ)でしたが、これは今は廃盤のようです。そして僕の愛聴盤は、原作者・芥川龍之介の三男でもある芥川也寸志の指揮、新交響楽団の演奏による早坂文雄の作品集(フォンテック)。ライブ録音であることやもともとのオケのレヴェル(アマチュアとしてはハイレヴェルなのですが)といった弱点はあるにせよ、情念の高まりを感じさせてくれる演奏だと僕は思っています。更にこのCDには<羅生門>の他にも<管弦楽のための変容>という大傑作も含まれています。また現行盤は山田一雄の指揮で早坂の遺作となった交響組曲<ユーカラ>と組み合わせた2枚組のセットになっているようです。
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by ohayashi71 | 2014-07-20 23:39 | 本編

第23回:チャイコフスキー/幻想序曲<ロメオとジュリエット>

 最初に白状しておきますと、僕はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~93)の音楽について共感しきれない感情をいくらか抱えています。中学生時分にクラシック音楽を好きになった当初は、例えばピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23であったり交響曲第4番ヘ短調Op.36といった曲はよくレコードを聴いてはいました。しかし、いろいろな作曲家の音楽を聴き進めていくうちに、チャイコフスキーの音楽のある意味「聴かせ上手」な感じが少し鬱陶しくなってきたのですね。
 もちろん捉えどころが無い音楽でもつまらないのですが、チャイコフスキーの場合、どんなに激しい部分でも甘さと美しさが同居した旋律がしっかりと存在していて、また管弦楽であればそれを引き立てる見事なオーケストラ遣いをしており、聴き手の心をがっちり掴む展開で音楽が目の前を流れていきます。ただ、それ故に何か「いやらしさ」を僕は覚えることがあるのです。ありのままに感情の爆発を描いて突き抜けるのではなく、その何歩か手前のセンチメンタルな気分で留まっているのではないか、ということなのです。その意味で、僕がチャイコフスキーに対していちばん酷い見方をしていた20代前半には、彼の音楽はどれも「演歌とバレエ」なんじゃないかと思っていました。
 まあ、それから僕も歳を重ねてみて一周したのかもしれませんが、今は以前よりも素直に彼の音楽を聴けるようになりましたけれど。それに、局所的な旋律美と全体としての構成を両立させるのはやはりある種のハイ・レヴェルな職人技が必要でもあるとは思うのです。
 さて、ここまで書いてきた話の流れの上で、挙げるチャイコフスキーの作品が幻想序曲<ロメオとジュリエット>であるべきかどうかは分かりません(笑)。しかし、上に書いてきたような要素を含む作品としてこれを挙げておくのはやっぱりアリだろうとも思います。
 幻想序曲<ロメオとジュリエット>は1869年に初稿が完成していますが、それは現在最も演奏機会の多い版(第3稿)とはかなり違います。曲の出だしから別物で、速く激しい動きをする辺りから同じ主題が現われますが、全体的にはやっぱり別物ですし、第3稿ほど面白くは聴けないはずです。とは言え初稿のCDも出てはいます。ジェフリー・サイモン指揮のロンドン交響楽団(Chandos)とか。
 第2稿については僕は未聴なので触れません。で、1880年に書き上げられた第3稿。初稿からの10年ちょっとの間にチャイコフスキーは交響曲第4番、バレエ<白鳥の湖>Op.20、ピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35、そしてオペラ<エフゲニー・オネーギン>といった名作を生み出していました。特にバレエやオペラといった文字どおり劇的な音楽についての表現を彼なりに追究していったことも踏まえての<ロメオとジュリエット>への立ち返りは非常に大きかったのではないでしょうか。
 <ロメオとジュリエット>はもちろんシェークスピアの戯曲に基づいていますが、物語の筋を単純に時間的に追うのではなく、運命的な家同士の争いやそれを乗り越えようとする恋愛、そして彼らの間に立つ修道僧ロレンスのイメージを主題とし、それらが絡み合うことで出来上がっています。演奏時間にしておよそ20分ほどの作品ですが、旋律美の極みとも言うべき2つめの主題(恋愛を描いているとされている)をはじめ、それぞれの主題が素晴らしく引き立っており、聴くとあっという間です。
 そんな<ロメオとジュリエット>のディスクですが、僕はやっぱり甘さ控えめでも十分に優れた作品だと思わせてくれるエードリアン・ボールトとロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(EMI/ワーナー)をまず挙げたいと思います。現在いちばん入手しやすいのはボールトのもろもろ10枚組ボックスのようですが、これは正攻法の名演揃いなので。
 それからボールトのスタイルの真逆にはなるのでしょうが、往年の大指揮者ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の1930年の録音(membran)も挙げておきましょう。2つめの主題のテンポの揺らし方や、弦楽器のポルタメント(音のずり上げやずり下げ)を多用した歌い回しによる甘美さの強調はいかにも昔風の演奏なのでしょうが、それはそれで彼らがチャイコフスキーの生きていた時代(に近いもの)の空気を知っている音楽家たちであるという認識はあっても良いのではないでしょうか。こちらもちょっと入手しづらいかも、ですけれど。
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by ohayashi71 | 2014-07-18 00:45 | 本編

第22回:ヴィヴァルディ/協奏曲集Op.8<和声と創意への試み>より 第1曲~第4曲「四季」

 「ど」が付くぐらいのメジャーな作品を。
 アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)の「四季」と言えば、まあクラシック好きでなくても何処かで耳にしたことはあるはずの作品ですね。僕は中学の音楽鑑賞で聴いたのが最初だったように思います。多分、クラシックにハマるよりも前だったと記憶していますが、正直そんなに楽しめなかったようです。そりゃあ子ども心に「きれいだな」ぐらいは思ったかも知れませんが、少なくともそれきっかけでクラシックにハマらなかったのは確かです(僕の場合はラヴェルの<ボレロ>きっかけでしたから)。
 クラシックを毎日のように聴くようになっても、ヴィヴァルディにしてもバッハにしても、とにかくバロック音楽にはまだピンときませんでした。それが少し変わったのは高校に上がってからのことで、何となく「四季」のCDを買ってみようかという気になりました。それで買ってみたのが、当時のガイド本で評論家先生方の賛否が割れていたニコラウス・アーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥスムジクス盤(ヴァイオリン独奏:アリス・アーノンクール)(Teldec/ワーナー)でした。
 これはとても面白かった。とにかくそれまで僕が聴いていた「四季」のイメージとまるで違う演奏だったからです。音のアクセントの独特な付け方、テンポ設定や揺らし方、独奏ヴァイオリンをはじめとした各楽器の鳴らし方の細やかな工夫、そしてそれらを総合した時の印象として顕れてくる「ドラマとしての音楽」の強烈さ。
 確かに「四季」の楽譜には各季節の様子を描いた作者不詳のソネット(十四行詩)が添えられており、それを音楽化したものがこの4つの協奏曲なのでしょう。そう考えた時に、そこで描かれている風景の中で聞こえてくるはずの実際の音を楽器で真似たり、そのイメージに近付けようとする弾き方をしようとするのは当然アリの考え方です。少なくとも18世紀のヴィヴァルディと19世紀のベートーヴェンやメンデルスゾーンの音楽が別物であることは間違いありません。今でこそ、クラシック音楽の演奏の中で「古楽」というスタイルは、歴史考証的な位置付け以上の存在感を持っていますが、僕がクラシックを聴き始めた1980年代半ばでもまだまだ決して十分に認知されていた訳ではなかったと思います。その意味で、「四季」という作品のレコード録音においてアーノンクール盤の果たした役割は大きかった、と言われているようです。
 さて、アーノンクール盤の登場から30年以上経った訳ですが、それからどうなったか。「古楽」スタイルによる演奏の幅はどんどん拡がって、十人十色というか百家争鳴というか、とにかくいろいろなアプローチによる演奏が出てきました。そんな中、今でも僕はアーノンクール盤を愛聴していますが、もうひとつ挙げるとすればファビオ・ビオンディの独奏と指揮によるエウローパ・ガランテ盤(Opus111)でしょうか。「四季」で描かれているドラマを更に追究し、鮮やかで生々しささえあるものとして表現しているようにも思えます。バロック音楽という言葉が優雅さを示すだけの代名詞である時代は終わったのです。
 他にも楽しい演奏はいろいろありますが、変わり種もいくつか。
 ピリオド楽器による「古楽」が主流になってしまうとこれまでのようなモダン楽器による演奏の存在意義は無くなるか、というとそういう訳でもありません。その視点で言えばギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカのCD(Nonesuch/ワーナー)には、クレーメルらしい試みがあります。それはヴィヴァルディの「四季」のそれぞれの間にアストル・ピアソラの<ブエノスアイレスの四季>を挟み込むというもので、だからアルバム・タイトルは<EIGHT SEASONS>です。18世紀の四季と20世紀の四季との対比の妙。またピアソラの方のアレンジの捻りが効いていて、ピアソラなのにヴィヴァルディのフレーズが突然入り込んでみたりもします。これはそれぞれをまとめて前後に置いてしまったら面白さは間違いなく半減するはずで、さすが「鬼才」というCDです。
 続きまして。
 ヴィヴァルディの作品は彼の生前からイタリア以外の国々でも愛好されていました。しかし、著作権意識の薄い時代のことですから、良からぬ?企てをする音楽家も居る訳で。フランスに二コラ・シェドヴィル(1705~82)という音楽家がいました。彼はミュゼッとというフランスのバグパイプ的な楽器の奏者でもあり、それを使った自作も発表はしていたのですが、1739年にヴィヴァルディの「四季」を元にして<春、または楽しい季節>という曲を出版しました。これがすごい。「四季」の楽器編成を単にミュゼット、ヴァイオリン、フルート用にしただけでなく、他のヴィヴァルディの曲の楽章と入れ換えたり、順番を換えたり、更に独自のフレーズを入れてみたりと、やりたい放題に仕上げています。僕は中古CD店でパラディアン・アンサンブルのCD(Linn Records)をあんまり深く考えずに買ってみて、後で聴いてぶったまげましたね。まあ、おおらかな時代だったということで。そんな1枚。
 最後にもう一つ。
 シェドヴィルはともかくとしての話ですが、「四季」にはドレスデン版と呼ばれるものが存在していて、それは原曲が弦楽合奏と通奏低音だったのが、ここではリコーダー、オーボエ、ファゴット、ホルンといった管楽器が含まれているのです。ヴィヴァルディ自身によるものヴァージョンではありませんが、生前のヴィヴァルディはドレスデン宮廷との結び付きもあり、管楽器入りの演奏記録もあったことで、そこからのある種の復元版ということのようです。弦楽器と通奏低音だけでも十分に色彩的な音楽なのに、それに管楽器が加わるとどうなるか。そういう楽しみ方も出来るので、いい時代になりました(笑)。CDはフェデリコ・グリエルモの独奏と指揮でラルテ・デラルコの合奏(CPO)
(上段、左からアーノンクール盤、ビオンディ盤、クレーメル盤。下段、左からパラディアンens盤、グリエルモ盤)
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by ohayashi71 | 2014-07-08 01:48 | 本編


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