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第21回:マーラー/交響曲第7番

 7月7日、という日はもちろん日本では七夕なのですが、僕にとっては「あぁ、マーラーの誕生日だよなあ」と思う日だったりします。別に僕はグスタフ・マーラー(1860~1911)の熱狂的なファンではありません。単に覚えやすい日だから、というぐらいのことです。とは言え、毎年7月7日にやると決めていることがあって、それはマーラーの交響曲第7番を聴く、ということ。多分、もうこの10年ばかりそれが習慣になっています。
 他にも、と言うより未完の交響曲第10番(デリック・クック補筆版をはじめとする完成版も)まで含め、また歌曲も含め、マーラーの作品の殆どはとても好きなのですが、交響曲第7番については一際強い愛着を持っています。
 いろいろな本や解説書を見ると、この交響曲第7番はマーラーの交響曲の中でいちばん人気が無いと書かれていたり、演奏機会が少ないと書かれていることが多いようです。最近は分かりませんが、僕がかつて接してきたものではそういう扱いが普通だったように思います。
 何故か。
 そういう評価をされてしまっていた大体の要因は、この交響曲の最終楽章である第5楽章にあったようです。それまでは、暗さを含む重々しさとぬるい甘さが奇妙に混じり合った第1楽章に、「夜曲(Nachtmusik)」と題されどこか寂寥感すら漂わせる第2楽章、「影のように」と記されたスケルツォである第3楽章、それにマンドリンやギターが登場し文字どおりのセレナード風な音楽が奏でられ再び「夜曲」とされている第4楽章という感じで繋がれていきます。そして、それらに続く第5楽章はティンパニの景気のいい連打で始められ、途中に優美なムードも挟みながらのドンチャン騒ぎのロンドとして描かれ、最後も華々しく明るく閉じられるのです。その第5楽章が余りにもそれまでの流れからすると浮いた感じになって全曲の締めとしてのバランスを崩している、というのがこの曲に対する批判的な考えのようです。
 確かに、第5楽章はその出だしからして、ストレートに言えば下品なぐらいのノリを見せます。その意味で、マーラーが交響曲第5番や第6番で示してきたような、全曲を通してのドラマの結論部分としてのフィナーレとは看做しがたいかも知れません。それまでの話が無かったことになるぐらいの破壊力があると言っても良いでしょう。
 しかし、僕はそういうある種の矛盾すら感じさせるようなドラマとしての音楽の流れをそのまま並べたこと自体がこの曲の価値ではないかとも考えています。別の言い方をするなら、例えばベートーヴェンの交響曲第5番のような明快な起承転結のドラマ、終わりのための始まりであり経過である、という考え方に異議を唱えるような曲があっても良いだろう、ということでもあります。相克や葛藤であったり、喜劇や悲劇といった分類に全てのドラマがいつも分けられる程世の中は単純ではないはずです。もともとマーラーの作品にはそういう要素が含まれていたと僕は思っていますが、全曲を通じての割り切れなさをそのまま描き切った、という意味ではこの交響曲第7番はマーラーの作品の中でも唯一無二の存在なのではないでしょうか。ちょっと違うのかも知れませんが、マーラーと同時代に生きた作家、フランツ・カフカ(1883~1925)の奇妙な作品群を連想してみるのもアリなのでは。
 さて、こう書いてくると交響曲第7番が大変な難曲であるように思われるかも知れません。でも、そうですねえ、やっぱり難曲なんでしょう。だから聴いて受け止める、スッキリしない気分があってもそれも受け止める、矛盾は矛盾のまま受け止める。それで良いんじゃないでしょうか。
 で、そういう僕の感覚にいちばんハマるのはオットー・クレンペラー指揮のニュー・フィルハーモニア管弦楽団による1968年の演奏(EMI/ワーナー)です。僕はこのディスクにはかれこれ20年ぐらいはお世話になっています。クレンペラー(1885~1973)はマーラーの直弟子の一人で、マーラー自身の指揮による交響曲第7番の初演にもリハーサルから立ち会っていた人物です。ならば、すごく正当的な演奏をしているのでは、と思ってはいけません。多くの指揮者が全5楽章を80分弱で演奏するのに対し、クレンペラーは約100分かかっています。遅い、と言えば遅いのでしょうが、そのテンポで、そしてクレンペラーの透徹したバランス感覚によるオーケストラの鳴らし方で見えてくる(聴こえてくる、と言うより)視界の広がり具合はあまりにも圧倒的です。第1楽章と第5楽章がよりヘヴィな音楽になるのは当然としても、僕は第2楽章で示される強烈な寂寥感の風景には強く惹かれます。言ってしまえば、マーラーの交響曲第7番のディスクについては、「クレンペラーとそれ以外」だと思っていただいて構いません。僕もこれまでにたくさんのレコードを聴いてきましたが、この演奏は僕にとって5本の指どころか3本の指に入れなければならないと思うぐらいの愛聴盤なのです。
 曲もディスクもマニアックと言えばマニアックな話でしたけれど。
f0306605_2241023.jpg(クレンペラーによるマーラーの交響曲選集)
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by ohayashi71 | 2014-07-01 00:01 | 本編

第20回:フランク/<3つのコラール>より第2番 ロ短調

 僕にとって最初の職場になった施設にはパイプオルガンがありました。それはコンサートホールの中に鎮座する、というものではなく、施設全体のエントランス(入口)の空間に設置されていました。しかも、可動式の仕切り壁を何か所か持ってくることで、ほぼホールのような状態にすることが出来るという、よく出来た作りにもなっていました。本格的なリサイタルの場合は、更に僕たちスタッフが300脚ほどの椅子並べをしていました。
 ただ、その施設では本格的なオルガンのリサイタルは、当時は年に1回ぐらいだったと思います。じゃあ、その日以外にオルガンの音を聴くことは出来ないのか、というとそんなことはありません。毎月の全ての土日ではないにしても、その半分前後の日数で<プロムナード・コンサート>という、オルガン演奏に触れてもらえる機会を設けていました。1回あたりの時間は大体20~30分、それを1日のうちに2回行う、というかたちです。エントランスの空間で、座って聴いたり、立って聴いたり、皆さん思い思いのスタイルで楽しまれていましたし、しかもその間でも来館の人の行き来が自由に出来る、というその大らかな雰囲気が僕は好きでした。
 普段の<プロムナード・コンサート>は、ほぼ東京芸大のオルガン専攻の学生さんが演奏し、やはり自身もオルガン奏者でもあるスタッフのMさんが担当として付いていました。しかし、その担当、というのが実は大変な仕事で、本番の時の譜めくりだけではなく、演奏助手(アシスタント)としての役割もこなさなければならないのです。
 オルガンの鍵盤部分を間近で見たことのある方はご存知だと思いますが、鍵盤の他にたくさんのボタンのようなものがその付近にあります。それらはひっくるめて言えば「ストップ」と呼ばれ、それらの組み合わせにより音色を変えることが出来ます。オルガン曲の楽譜を見ると、ストップ操作についての指定が予め記されていることもありますが、演奏者に委ねられていることの方が多いと思います。
 オルガニストが大変なのは、手鍵盤だけでなく足鍵盤まであるための全身運動ばかりでなく、演奏しながらのストップ操作も必要ですし、曲の何処でそれを行うのかも決めておかなければならないということです。しかもオルガンという楽器は基本的に同じものは一つとしてない、つまりいちいち別物なのです。それはオルガンの設置される場所や用途等の条件によって機能も違うことを意味します。Aというホールのオルガンで出来たことが、Bのオルガンでは出来ない、ということも珍しくはありません。
 僕が居た施設のオルガンには、予め決めておいたストップの組み合わせをいくつかのパターンで記憶し、順送り出来るような電気的な装置が付いてはいました。演奏者自身でそれを操作出来なくはないのですが、曲によっては横に居る助手がそれを手伝わなければいけない、ということもありました。で、僕も何度か<プロムナード・コンサート>で助手を務めたことがあり、譜めくりプラスストップ操作の補助なんかもやったことがあります。自分自身の演奏でない分だけ、却ってドキドキしながら務めていたように思います。とは言え、オルガンの生の音色や演奏の様子に直接的に親しむことが出来たという意味では、とても良い経験でした。
 さて、その<プロムナード・コンサート>でよく弾かれていたのはやっぱりヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の作品だったはずです。まあ、作品数も多いし実際名曲も多いので。もちろん、オルガンのための作品はバロック以前から現代に至るまでずっと書き続けられていますが、僕が一時期とても興味を持っていたのはフランスの近代、具体的には19世紀後半から20世紀にかけて活躍していたオルガニストとしても活躍した作曲家たちの作品です。例えばシャルル=マリー・ヴィドール(1844~1937)やルイ・ヴィエルヌ(1870~1937)といった人々。音楽史の大きな流れで言えばロマン派から近代にかけての時代であり、リヒャルト・ヴァーグナー(1813~83)やクロード・ドビュッシー(1862~1918)等に代表される、和声の拡大をはじめとした音楽的表現の拡大が多くの作曲家に影響を与えた時代です。そういったものがオルガンがもともと備えていた表現力、多彩さや巨大さと結び付くことで、バッハの時代とはまた違った魅力を放っているのです。
 ヴィドールやヴィエルヌの流れを受け継いだのは20世紀後半を代表する作曲家だったオリヴィエ・メシアン(1908~92)ですが、逆に彼らの流れの源になったのがセザール・フランク(1822~90)です。
 フランクというと、多くの人にとってはまずは<ヴァイオリン・ソナタ イ長調>でしょうし、オケ好きからすると<交響曲 ニ短調>でしょう。もちろん、僕はそれらも大好きですが、今日は彼の遺した作品たちの中ではかなりの割合を占めるオルガン作品から1曲挙げたいと思います。それはフランクが世を去る直前に完成させたオルガンのための<3つのコラール>の第2番 ロ短調です。
 フランクの音楽はたとえ終結部が輝かしいものになっていたとしても、そこに至るまでの紆余曲折ぶりが半端ないと思います。メロディや動機の中の一つの音が半音上下することで示される小さな変化が転調を呼び、それが次々と流れの中で起こります。音の動き自体はしなやかですが、一方でなかなか高揚感は持続しません。敢えて吹っ切るのを止めて、そして敢えて葛藤を繰り返す方を選んでいるようにも見えるぐらいです。その極端さが慎重に避けられたドラマに、むしろフランクという人の実直さや正直さが現れているような気もします。<3つのコラール>のどれもがそういった要素を含んでいますが、その中では第2番が僕の性には合うようです。
 第2番 ロ短調は、決して峻厳さはないにしても荘重な気分のテーマを中心とした作品です。そのテーマがパッサカリア風に繰り返され、新たなメロディを加えながら落ち着いた後、一旦劇的な部分が現れます。しかし、それはテーマによるやはり荘重なフーガを導き入れるための動きでしょう。テーマと前に出たメロディが絡み合いながら、次第にひとつの大きな流れが形作られていき、その頂点でテーマが決然と現れますが、そこからまた音楽は次第に勢いを弱めながら最後は静かに閉じられます。構成的な意味での複雑さよりもむしろ自由で幻想性を帯びた作品として聴いた方が受け止めやすいのではないでしょうか。
 CDは、昨年亡くなった名オルガニスト、マリー=クレール・アランが1976年に録音したフランクのオルガン作品集(Erato/ワーナー)をひとまず挙げておきますが、多くの名手が取り上げてきた作品でもありますので、誰からでも良いのでまずはこの音楽空間を感じてみていただければと思います。
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by ohayashi71 | 2014-06-26 23:24 | 本編

第19回:ハチャトゥリアン/ヴァイオリン協奏曲ニ短調

 僕が初めてCDを買ったのは高校1年生の冬休み中だった1987年1月2日です。何で日付まで覚えているかというと、お年玉を握りしめて勇んで初売りに出かけたから。そして行った先は中央町商店街のヱトウ南海堂。
 当時大分の街なかにはヱトウの他にリズムレコード、OBSサービスといったレコード店があり、トキハのレコード売場と合わせて僕は月1ペースで訪れていました。とは言え月々の小遣いで買えるレコードは大体1枚なので、その1枚を選ぶためにそれらのお店をグルグルと回ってようやく選ぶ、ひどい時には4時間かけて1枚なんていうこともありました。お店の人にとっては本当に邪魔くさい子供だったはずですが、僕としてはどのお店にも大変お世話になったと思っています。
 しかし、それまでのLP選びとは違って初CDは出かける前から心に決めていました。それはアラム・ハチャトゥリアン(1903~78)のヴァイオリン協奏曲のディスクでした。その頃、僕はとにかくいろいろな曲を知りたいと思い、NHKのFMでやっていたクラシックの番組を片っ端から聴いていました。そして聴いた曲を書き出して自分の好みだったかどうかを○△×で付けて、○の曲のレコードを入手希望順位の上の方に置く、ということをやっていました。まあ1回聴いて本当にその曲の良さが分かるほど甘くはありませんし、分かったつもりになるのも子供らしいことだったとは思っていますが。
 ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲も多分FMで聴いてかなりのインパクトを受けていたはずです。ハチャトゥリアンと言えばバレエ<ガイーヌ>の「剣の舞」。迫力に満ちた強烈さと鮮やかなオーケストラの響きに、中央アジア的で濃厚なエキゾチックさとが結び付いたこの小品はクラシックを普段そんなに聴かない人でもご存じのはず。また近年では、劇音楽<仮面舞踏会>の「ワルツ」がフィギュアスケートの浅田真央のプログラムで使われたことで一躍有名になりました。
 そんなハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲。急-緩-急の3つの楽章からなりますが、出だしから最後までどこを取ってもハチャトゥリアン。「剣の舞」の人。そう書くとひたすら賑やかしいばかりと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。彼の音楽は強烈な生命力に溢れていますが、それはリズムと原色的な響きによるところが大きいと思います。一方で忘れてはならないのがその節回し。美しさもありますがそれ以上に濃さ。日本民謡を上手に歌う人がこぶしをきれいに回しまくる時にふと感じるような凄み。ヴァイオリンという旋律楽器で徹底的に民謡を歌いあげ、かつ舞曲を奏でさせたらこうなる、というのがこの協奏曲ということになるのだと思うのです。
 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲がウィーンで初演された時、エドゥアルド・ハンスリックという大批評家(彼は大のブラームス支持者だったのですが)は、「臭い音楽」という表現を使って酷評しました。ハンスリックにとってはチャイコフスキーの音楽は彼の美学からするとあまりにも土俗的過ぎるという判断だったのでしょうが、もし彼がハチャトゥリアンのこの協奏曲を聴いていたら間違いなく卒倒していたと思いますね。料理には「臭いは美味い」という言い方がありますが、僕にとってのハチャトゥリアンはまさにそれ。
 さて僕の愛聴盤。それこそ1987年の正月に買ったCD。ダヴィッド・オイストラフの独奏と作曲者自身の指揮、そしてモスクワ放送交響楽団による1965年録音のもの(Melodiya/ビクター)。ただし何故か今は廃盤のようで、輸入盤でも入手が難しいかもしれません。オイストラフとハチャトゥリアンの共演の録音は少なくとももう一つあって、それは1954年にイギリスのフィルハーモニア管弦楽団とやったもの(EMI/ワーナー)。こちらはモノラル録音ですがそれでも十分に楽しめるはずです。オイストラフはこの曲の初演者であり被献呈者だけに、ある意味でハマって当然なのですが、技術的にも歌い回し的にも本当にドンピシャだと思います。
 他にも巧いという意味では本当に巧いイツァーク・パールマンとズビン・メ-タ/イスラエル・フィル(EMI/ワーナー)や、オイストラフと同時期に活躍した旧ソ連の名手、レオニード・コーガンとピエール・モントゥー/ボストン交響楽団のもの(RCA)など。
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(左からオイストラフ65年盤、オイストラフ54年盤、パールマン盤)
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by ohayashi71 | 2014-06-19 22:16 | 本編

第18回:マレ<聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘>

 もう15年ぐらいは前のことですが、別府大学大分キャンパスであった波多野睦美さん(メゾ・ソプラノ)が出演する演奏会の手伝いに行ったことがあります。因みに僕は高校1年生の1年間だけですが、波多野さんから音楽の授業と部活(音楽部)で指導を受けました。ということで、今でも波多野先生と書かないとピンと来ないのですが。まあ、僕は不肖の弟子ということで。
 さて、話を戻してその別府大学での演奏会は、今考えても豪華な顔ぶれだったと思います。波多野先生の他に曽根麻矢子さん(チェンバロ)ヒロ・クロサキさん(ヴァイオリン)、福沢宏さん(ヴィオラ・ダ・ガンバ)、中村忠さん(フラウト・トラヴェルソ)という古楽界のトップ・プレイヤーの皆さんのアンサンブルだったので。
 で、その演奏会で初めて知って、強い印象を受けたのがマラン・マレ(1656~1728)の<聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘>という作品でした。
 マレは、フランスがブルボン王朝の絶頂期にあったルイ14世とルイ15世の時代に活躍した音楽家で、特にヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)のための作品を数多く遺しています。ヴィオールは足で挟んだり、膝の上に置いたりする弦楽器ですが、現在のヴァイオリンやヴィオラ、チェロとは種類が違うものとされています。ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の時代ぐらいまでは普通に使われていましたが、その後廃れていった楽器群でもあります。
 この<聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘>は、ヴァイオリンとヴィオールに通奏低音という組合せで書かれており、その演奏会ではヒロ・クロサキさんと福沢さん、それに通奏低音としてチェンバロの曽根さんで演奏されました。うーん、やっぱり豪華です。
 演奏時間にして7~8分のこの曲は、4分の3拍子をやや速めのテンポでずっと通します。しかも最初から最後までD(レ)―F(ファ)―E(ミ)の3つの音の繫がりを400回ばかり繰り返します。途中イ短調やヘ長調に転調もしますが、基本的にはその繫がりの関係自体は保ったままに、です。そのストイックさは主に通奏低音のパートが担いますが、ヴィオールも同じくらいにストイックになります。しかし、マレはヴィオールのパートにD-F-Eの音型のヴァリエーションを、しかもかなり難易度の高いフレーズを次々と放り込んでいます。単に4分音符が8分音符、16分音符と細かくなるだけでなく、多彩なリズム・パターン、素早い移弦や重音等も盛り込んでいるのです。そして、それらの上にヴァイオリン・パートがかなり自由度の高い、エッジの効いたフレーズをまた積み上げていく、という作りになっています。そうやって繰り広げられる3パート3様のせめぎ合いは、後世の作曲家たちのソナタ形式等が示すドラマ(対照、発展、再帰)とはかなり違うものですが、十二分に魅力的なドラマだと思うのですよ。
 で、CD。ヴィオールを含む作品としてはやはりポピュラーな(演奏会にも向いている)ものなので、探すと意外に数はあると思いますし、しかもかなりの名演奏家たちによる演奏のディスクもいくつかあります。
 僕が最初に入手したのはシギスヴァルト・クイケン(ヴァイオリン)、ヴィーラント・クイケン(ヴィオール)、グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)という古楽界の重鎮中の重鎮たちによるディスク(ハルモニア・ムンディ)でした。今回改めて聴き返してみても立派な演奏だと思います。他にも、今や指揮者としてのイメージ方が強いかも知れないニコラウス・アーノンクールがヴィオールを弾いたもの(ハルモニア・ムンディ)寺神戸亮さん(ヴァイオリン)たちのディスク(デノン/日本コロムビア)ラインハルト・ゲーベルとムジカ・アンティクァ・ケルン(Archiv/ユニヴァーサルクラシック)などもそれぞれに素晴らしい演奏だと思います。
 しかし、最近僕の推しにファビオ・ビオンディ(ヴァイオリン)、ジョルディ・サバール(ヴィオール)、それにピエール・アンタイ(チェンバロ)ロルフ・リズレヴァン(テオルボ)という組合わせの演奏(Astree)が加わってきました。上述した「せめぎ合いっぷり」が鮮やかな演奏です。
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(寺神戸盤とサバール盤)
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by ohayashi71 | 2014-06-01 02:18 | 本編

第17回:ヤナーチェク/歌劇<利口な女狐の物語>

 僕にとってオペラというジャンルはなかなかとっつきにくいものでした。
 興味はありましたが、実演に接する機会がほとんどありませんでしたし、レコードにしても大概何枚か組で手を出しづらい。それに何よりも言葉の壁。NHKのFMでやっていた<オペラ・アワー>は聴いてはみますが、本当に耳に入れるという程度で、演奏の内容はおろかどんな場面かも分からない。まあ、実際に歌手たちが舞台で歌い、演技する様子も目にしない限りは、中学生や高校生には難しかったのだろうとは思います。一応、高校生時分にヴェルディの<椿姫>の中古LPは入手しましたが、例の「乾杯の歌」の部分ぐらいしか聴いていませんでしたね。
 それに、当時の僕はオペラで語られるお話しが気に入らなかったのです。まあ、リアリティを感じなかったというか、大げさに思えて仕方なかったというか。音楽的な要素よりも脚本とかの方がしっくり来ていなかったとも言えます。
 で、ずっと敬遠していたオペラですが、大学生になってとっつく糸口をようやく見つけました。やはり吉田秀和さんの本がきっかけでした。<私の好きな曲>という本があり、ひとつの曲についてかなりの字数を使って論じていたのですが、そこで出会ったのがチェコの作曲家、レオシュ・ヤナーチェク(1854~1928)のオペラ<利口な女狐の物語>です。
 吉田さんの素晴らしい文章を読んでしまえば、もうそれで十分この作品の魅力は伝わると思うのですが、せっかくなので少し引用しておきます。
 「この作品を、私が数あるオペラのなかでも格別に好きな理由は、まず今いった詩趣のためだが、その詩は、「自然」から生まれる。オペラの中で、こんなにも自然が豊かに、そうしてこしらえもでない新鮮さと自由さとで、生きているものを、私はほかに知らない。」
 もう一か所引用。
 「『黒い、乾いた峡谷。ちょうど第一幕の時と同じように、太陽が、霧雨のあと輝く』とト書きのあるこのオペラ最後のシーンを開始する導入音楽。ここでの金管たちの短く出没する楽段のかもしだす清らかな暖かさ。こんな音楽は、ほかにはどこにもない。
 この清らかさを純粋と呼ぶなら、このオペラは、純粋な音楽で始まり、そうしてそれで終わっているのである。このすばらしいオペラでは、筋をこまかく追いながらきく必要なんか、ほとんどないのだ。音楽をきいてさえいれば、「自然」をよりこまかく呼吸することを、夏の夜を、春の日ざしを、秋の夕ぐれを、より充分に生きることに自ずと導かれることになる。
 これは、そういう作品なのである。」

 僕にはこんな素晴らしい文章でこのオペラをご紹介できませんが、せめてものということで引用させていただきました。
 ああ、あらすじを書いていませんでしたが、ひとことで言えば、1匹の女狐を主人公にして彼女の周りに居る動物たち(そこには人間たちも含まれるのですが)、そして彼らを取り巻く自然を描いた、という感じでしょうか。自然への賛歌のような要素は色濃いにしても、手放しなのではなくてありのままを描こうとしているようにも思います。
 そして吉田さんが書いているとおりの素晴らしい音楽。美しくドラマティックでありながら決して押しつけがましくならない全体の最終場面の音楽が聴こえてくると、僕は毎回胸がいっぱいになるのです。僕は何年か前に幸いにも東京でチェコの歌劇場の引っ越し公演で<女狐>の実演を観たのですが、その時は正直泣きました。
 さて、そんな<女狐>の録音。吉田さんはボフミル・グレゴル指揮によるプラハ国立歌劇場(Supraphon)のものを挙げていました。僕もそれは実際とても良かったと思っていますが、愛聴盤という意味ではヤナーチェクのエキスパートだったチャールズ・マッケラスの指揮によるウィーン・フィル、ルチア・ポップ(ソプラノ)他の演奏(Decca)ということになりますかね。因みにマッケラスがパリで振った舞台上演のDVDもあったはずですが、今は入手しづらいかもしれません。
 それから対訳ですが、インターネット上にはちゃんと<女狐>も載っているようですので、輸入盤を買っても大丈夫ですよ。
f0306605_22301112.jpg(マッケラス盤)
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by ohayashi71 | 2014-05-20 22:32 | 本編

第16回:ドビュッシー/交響詩<海>

 まあ僕の感性の問題だったのですが、子供の頃はクロード・ドビュッシー(1862~1918)の音楽というのはよく分からなかった。楽しめなかった、という方が正確なところですね。<月の光>とか<牧神の午後への前奏曲>とかは中学生や高校生ぐらいの時分に聴いて知ってはいたのですが、もうひとつピンと来ないのです。
 後になって振り返ってみると、その違和感は彼の音楽に掴みどころを見出せなかった、というところに行き着くように思います。当時の僕はブルックナーやマーラーそしてベートーヴェン辺りをメインに聴いていました。ドイツ系という括り方も出来るのでしょうが、それよりも形式と展開、発展というスタイルの分かりやすさや、それから生まれるドラマに面白みを感じていた、ということでしょう。
 そう思うとドビュッシーの音楽にそういうドラマを求めるのは違うかなと。そのことに気づき始めたのは大学生になってからでしたかね。もちろん、ドビュッシーの音楽にもドラマはあると思います。ただ、それはもっと感覚的なものですし、そこには精妙な響きや、しなやかで自在なリズムを含むメロディが溢れています。そうした瞬間の美の発生自体がドラマですし、また美の生まれようや連なりようもドラマだろうと思うのです。
 僕がドビュッシーの音楽をそう考えるようになったきっかけの作品が<海>でした。精妙さやしなやかさは前述したとおりですし、この曲の場合そこにオーケストラだからこそ可能な色彩感やダイナミックな表現もふんだんに盛り込まれているのです。
 といった辺りから僕の愛聴盤を挙げようとすると、まず思い出すのはジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団の演奏(Sony)です。響きのまとまり具合(純度とか透明度という表現でも良いのかも知れませんが)も素晴らしいとは思うのですが、それ以上にセルの全曲各所でのテンポ設定や変化させていく感じが僕にはフィットするのです。その意味では特に第2楽章<波の戯れ>の後半で見せる緊張感の高い追い込み(テンポアップ)はとても素晴らしいと思っています。とにかく、どんなに響きが磨き上げられ美しかったとしても、テンポの設定次第でとても物足りない感じの演奏になってしまう危険のある作品だと思いますが、ここでのセルはドンピシャですね。
 と絶賛はしたいのですが、残念ながら現在入手しづらいようです。これだけの名演なのですが。
 それである程度同様の要素を持つ演奏としてピエール・ブーレーズ/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団の演奏(Sony)も挙げておきます。セルほどには攻めていないかも知れませんが、やはり響きの作り方は素晴らしいと思います。
 こうした演奏がある一方で、もっとダイナミックで振れ幅の大きな表現もこの曲ではちゃんと成立します。シャルル・ミュンシュのライヴを含めたいくつかの録音はそうした方向の可能性を分かりやすく伝えてくれるものでしょう。ボストン交響楽団との演奏(RCA/BMG)が一般的には入手しやすいとは思いますが、可能であればフランス国立管弦楽団との演奏(1966年:Concert Hall)同じオケとのライヴ(1962年:Disque Montaigne/Auvidis Valois)とかの方がより興味深いだろうと思います。
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(ブーレーズ盤)
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by ohayashi71 | 2014-05-02 01:54 | 本編

第15回:シューマン/ソナタ イ短調 Op.105

 学生時代のこと、僕はオーボエを吹いていました。まあ、大学でオーケストラのサークルに入ってから始めて、ほぼその4年間しかやっていなかったので大して上達はしませんでしたけれど。
 サークルの同じ回生で、楽器経験のある連中の話を聞くと、自分の楽器の関わっている曲をみんなよく知っている。協奏曲とかソナタとか小品とか。そういう曲はレッスンとかでも教わっていたんでしょうし、もちろん自分の興味もあるからなんでしょう。でも、僕は実際にオーボエを始めるまでオーボエのための、もう少し言えばオーボエがメインになる曲をそんなに知らなかったのです。モーツァルトのオーボエ協奏曲ハ長調K.314やオーボエ四重奏曲ヘ長調K.370の存在はさすがに知っていましたけれど、かといってゆくゆくは一節でもちゃんとさらって(=練習して)吹いてみたいな、とはあんまり思っていなかったのですね。そんな調子だから当時は有名なオーボエ吹きにしても、ハインツ・ホリガーとあと一人二人ぐらいしか名前を知らなかったはずです。
 そういう状態は、そもそもオーボエがメインで有名な作品がそう多くはないしなあ、と思っていたことも影響していたのかもしれません。当然丁寧に見ていけばそういう曲はちゃんとあるのですが、あんまりそこを意識的に追いかけようとしなかったのです。オーボエは好きでしたが、聴く側としてはオーボエだけにこだわらず、どんなジャンルでもOKという感じでレパートリーを広げていた時期でもあったので。
 それで、大学の4回生の時だったのか、社会人1年目の年だったのか、そこははっきりしていないのですが、とにかくその頃、そんな僕でもつい気になって購入したオーボエがメインのCDがあります。ローベルト・シューマン(1810~56)のいくつかの作品をヨーゼフ・キシュというハンガリー人のオーボエ奏者と、同じくハンガリー人のピアノ奏者、イェネ・ヤンドーが演奏したCD(Naxos)
です。そこに収録されていたのは<民謡風の5つの小品Op.102><幻想小曲集Op.73><3つのロマンスOp.94><アダージョとアレグロ 変イ長調Op.70>、それに<ソナタ イ短調Op.105>と記された曲でした。実はその頃でも、ホリガーがアルフレード・ブレンデルと組んでシューマンの曲だけを取り上げたアルバムが出ていたのですが、最後の<ソナタ>だけがよく分からない。そもそもシューマンが書いたオーボエとピアノのためのオリジナルな作品は<3つのロマンスOp.94>ぐらいしか無かったと思います。上に書いた他の曲は元はクラリネットであったりホルンであったりチェロのために作られたものです。
 とは言え音色が変わることによって、もともとシューマンが意図したであろう作品のイメージとは違ってくるのかもしれませんが、その一方で旋律の聴こえ方も良い意味で変わってきます。オーボエという楽器は例えばクラリネットやフルートに比べると運動性に劣るとされており(それはあんまり早いフレーズを演奏することが難しいという意味なのですが)、また演奏できる音域も決して広くはありません。しかしオーボエの持つくっきりとしていながら哀愁を帯びた独特の響きが、シューマンの音楽に含まれている、ある種つつましい雰囲気にうまく合っているのではないか、ということなのです。
 キシュとヤンドーのCDを最初から聴いていくと、僕は実際そう思ったのですが、このCDの最大の魅力は最後の<ソナタ>にあるように思えてきました。ここで取り上げられている<ソナタ>の原曲は<ヴァイオリン・ソナタ第1番イ短調Op.105>です。ヴァイオリンのためのソナタとしては超メジャー曲、という訳ではありませんが、シューマンらしい佳曲で、ギドン・クレーメルとマルタ・アルゲリッチのコンビをはじめ、いくつかの録音が出ています。オーボエだとヴァイオリン・パートをそのまま演奏するのは無理なので、キシュは細かい音を多少省いたり、オクターヴの調整はしていますが、ほとんどの部分では原曲のとおり演奏しています。正直なところ、僕はヴァイオリンでの演奏よりもオーボエの方がしっくりくる気がしています。シューマンの<オーボエ・ソナタ>ですよ、これは。暗く哀調のある旋律的冒頭から強い葛藤へと続いていく第1楽章、その緊張を一旦収束させる第2楽章、動きと情熱のこもる第3楽章のどれもがオーボエには、いえまあ一応オーボエにも、と書いておきますが、とにかくピッタリなのです。
 その意味で、もっともっとこのオーボエ・ヴァージョンの演奏が広まっていも良いのになあ、と僕は思うのですけれど。f0306605_271575.jpg
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by ohayashi71 | 2014-04-16 02:11 | 本編

第14回:ウォルトン/ヴィオラ協奏曲

 マイブーム、というのは確かみうらじゅんが作った言葉で、流行語大賞も取ったはずです。
 僕も結果的にいろいろなマイブームの積み重なりで、今のような音楽の趣味性を持つことになった訳ですが、そのブームのひとつにウォルトン・ブームというのがありました。19歳ぐらいから24歳ぐらいの間がピークだったと思います。
 ウィリアム・ウォルトン(1902~83)は20世紀のイギリスを代表する作曲家ですが、多分僕がクラシックを聴くようになった1980年代前半は、日本では未だそんなにレコードが出回るような扱いではなかったはずです。僕が彼の音楽を初めて認識したのは、ちょっとしたケガで1週間ばかり入院した中学3年の初夏でした。実際、大したケガではなかったので、まあ正直ヒマを持て余していたのですが、とりあえずラジオでクラシック番組を聴いていました。その中でたまたま耳にしたのが、ウォルトンのヴィオラ協奏曲でした。細かい所は全く覚えられませんでしたが、とにかく何だか僕の感覚にマッチした作品だということだけは記憶しました。それでレコードが入手できるかどうかを調べたのですが、どうやら当時廃盤になってしまっており、結局中学と高校時代には再びそれを聴くことは出来ませんでした。
 大学に入って関西に出ると、僕は京都や大阪辺りで輸入盤も扱う大きなCD店に頻繁に通うようになりました。今でもそうなのですが、CDの背が並ぶ棚を眺めるのが楽しくて、下手をするとその店のクラシック・コーナーの棚を全部見ることはしばしばで、しかも「これを買おう」と決めて行くことはほとんどなくて、「何か面白そうなものは無いかな~」と思いながら眺めるので、余計に時間がかかる。しかもお金は持っていないから、財布と相談した挙句、1時間ばかり店内をうろついた後、何も買わずに帰ることもよくありました。だからお店の人からすると本当に「イヤな客」だったろうと思います(笑)。
 脱線しました。
 で、ある時大阪心斎橋のお店に行くと、数年探し求めていたウォルトンのヴィオラ協奏曲のCDに行き当たりました。「おおっ!」と思いましたね。カップリングはやはりウォルトンのヴァイオリン協奏曲。しかもどちらの協奏曲も同じ奏者が楽器を持ち替えて演奏しているらしい。珍しく迷うことなくレジ行き決定です。
 ナイジェル・ケネディのヴィオラとヴァイオリンで、アンドレ・プレヴィン指揮のロイヤル・フィルの演奏したディスク(EMI)でした。
 帰って早速聴きましたが、中学時代の非常に薄い記憶が間違っていなかったことを確かめることが出来ました。つまり、とても素晴らしい作品だったということ。
 ヴィオラ協奏曲はウォルトンが27歳の年にあたる、1929年に発表した曲です。最初に献呈しようとしたヴィオラ奏者が演奏を拒否したためにしばらく初演が宙に浮いてしまったそうです。そんなウォルトンを救ったのがやはり20世紀を代表する作曲家で、ヴィオラ奏者としても活躍したパウル・ヒンデミット(1895~1963)でした。そしてヒンデミットを独奏に迎えた初演は大成功を収め、ウォルトンは彼にこの曲を献呈しました。
 1920年代というと、アメリカのジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)の<ラプソディ・イン・ブルー>(1924年)に代表されるように、ジャズやポピュラー音楽などの語法とクラシックとを結び付けることで、新しい表現を追求する作曲家も現れた時期に当たります。ウォルトンも形式感のある伝統的なスタイルを採りつつ、そこにスパイスの効いた響きやリズムといった新しい書法をロマンティックな雰囲気と並立させる独特な音楽を書いていきました。
 ヴィオラ協奏曲はそのそれぞれのバランスが最もドンピシャに決まった作品ではないでしょうか。僕が中学生の時にピンときたのは恐らく諧謔的(=スケルツォ的)で運動的な第2楽章だったのだろうと思います。ヴィオラという、一般的には「渋い」とされる楽器が、むしろその渋さをカッコよさに置き換えているのが、この第2楽章です。緩やかなテンポでセンチメンタルに始まって、次第に速まり熱を帯びていく様が素敵な第1楽章と、後半に大きなヤマを築き上げるまでの道のりが「渋カッコいい」第3楽章もまた素晴らしいと思います。以前にここで取り上げたエドワード・エルガーが貴族的な英国紳士だったとすれば、ウォルトンはちょっと皮肉屋の側面も持つウィットに富んだイギリス人という感じです。
 ヴィオラ協奏曲という物珍しさ(あとはベラ・バルトークの協奏曲ぐらい)だけでなく、そんなことを言わなくても名曲に挙げられるべきだと思います。
 ケネディ&プレヴィン盤以来、いくつもこの曲のCDを僕は聴きました。ウォルトン自身が指揮台に上がった録音も何種類かありますが(①リドル/②プリムローズ/③メニューイン)、それらはまあいわゆるコレクターアイテムでしょう。ヒンデミットの録音があったら是非聴いてみたいところですが、残念ながら無さそうです。その他に、世界的なヴィオラ奏者でウォルトンの生誕80歳記念の演奏会でウォルトン本人からも絶賛された経験もある今井信子の録音(ジャン・ラタム=ケーニヒ/ロンドン・フィル:Chandos)や、おなじみのユーリ・バシュメットの録音(プレヴィン/ロイヤル・フィル:RCA)等もありますが、まあ僕はケネディ&プレヴィン盤が今でもいちばんの愛聴盤です。付け加えておくと、プレヴィンはウォルトンのスペシャリストで、彼のウォルトン録音には名盤が多いのです。
 ついで話ですが、僕のウォルトン・ブームは社会人になってもしばらく続きました。その最初の職場の広報誌で僕がウォルトンのヴィオラ協奏曲を傑作扱いで紹介したら、ある時吉田秀和さんから「ウォルトンの協奏曲がいいっていう人も居るんだね」という感じのことを面前で言われたことがあります。その時は「あれ、お嫌いだったのかな」と思ったものですが、数年後の<名曲のたのしみ>でバシュメット&プレヴィン盤をご紹介されていたので、まあホッとしたものです。因みに、その放送回は文字起こしされて、去年小学館から出た<名曲のたのしみ、吉田秀和>の第3巻にも収録されています。
 最後に、おまけでウォルトンのヴァイオリン協奏曲について。これはかの名人、ヤッシャ・ハイフェッツに委嘱されてウォルトンが書いた作品ですが、こちらはハイフェッツの怜悧な弾きっぷりにピッタリな技巧的にも難曲な作品。ケネディ&プレヴィン盤も良いのですが、ハイフェッツ&ウォルトン/フィルハーモニア管の組み合わせによる録音(RCA)が抜群に素晴らしいと僕は思っています。
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(L→R:ケネディ&プレヴィン盤初出/ケネディ&プレヴィン盤収録の現行盤(ウォルトン作品集)/今井信子&ラタム=ケーニヒ盤)

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by ohayashi71 | 2014-04-09 02:12 | 本編

第13回:バッハ/ゴールドベルク変奏曲 BWV.988

 今回は定番中の定番(定盤)で。
 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)の作品のCDで僕がいちばん最初に購入したのはグレン・グールド(1932~82)が1981年に録音した<ゴールドベルク変奏曲>(Sony)でした。まずFMで曲を知って、それでガイド本か何かで薦められていたもの、というこ流れでそのCDを手にしたのではなかったかと記憶しています。
 当時出ていたソニーの名曲名盤シリーズに含まれていたそのCDの値段は3,000円でした。当時は
品番を見ただけで値段も分かるぐらい簡単な番号付けだったので。このグールドのCDは30DC何とかでしたね。
 およそ50分ほど要したグールドの演奏は、まだクラシック音楽を聴き始めてそんなに時間も経っていない子供でも「なるほど、これが名演か」と思えるぐらい、個性的であって、凄いなと納得させられる演奏でした。冒頭のアリアの低音部に主題が現れてそれが次々と変奏されて…、と解説には書かれますが、実際のところ形式を追うような聴き方をしなくても、緩急(テンポだけでなく強弱の出し入れも含め)の付け方が実に鮮やかで、その上、高音部と低音部の音たちの連なりやぶつかり合いのさまが非常にスリリングに聴こえてくるのです。そうして30のさまざまな変奏を繰り広げた後に、最後にまた冒頭のアリアが帰ってきて全曲が閉じられるのですが、そのアリアの深い呼吸ぶりが美しい余韻となっているのです。
 ただ、僕の買ったCDはその50分間でトラックがたったひとつきりでした。それはさすがに今となっては困りものではありますが、恐らく最近出ているものはちゃんと変奏ごとにトラック番号が付されているはず。
 さて、グールドというピアニストが非常に興味深い人物だった、ということは僕も次第に知ることになりました。大学1回生の時に、クラス(一応、美学とか芸術学の専攻だったのですが)の全員がそれぞれ何かを発表することになりました。僕は当然音楽について。それでアントン・ヴェーべルン(1883~1945)あたりでも、と何故か思ったのですね。若気の至りです。でも、分かっていないなりでも、あの点描的で超絶的な音空間は凄いなと。で、発表するのにやっぱり皆さんに音も聴いて欲しかった。それでCDを自分で準備することにしました。その時に購入したのが、グールドが若い頃(1957年)に演奏旅行でモスクワを訪れた際に音楽院で行ったレクチャー・コンサートを録音したCD(Melodiya)でした。それはヴェーベルンの<変奏曲Op.27>やアルバン・ベルク(1885~1935)の<ピアノ・ソナタOp.1>といった20世紀の作品たち(それらは当時のソ連という国家では演奏自体が本当は禁止されていましたが)が前半に演奏され、後半にバッハという流れのものでした。
 クラスの発表ではヴェーベルンを使ったのですが、随分引かれました。ドンびきでした(笑)。まあ、それはそれとして、そのモスクワ・ライヴのバッハがまた素晴らしかったのです。<フーガの技法BWV.1080>と<ゴールドベルク変奏曲>の自由な抜粋を彼は弾いていますが、その軽やかで自在な演奏ぶりがとても素晴らしいのです。録音を聴いていても、明らかにバッハ後の方の聴衆の反応が良い。
 カナダでは有望な若手として知られていたグールドが国際的な評価を受けるようになったのも<ゴールドベルク変奏曲>の録音でした。それは1981年録音を新盤とした場合に旧盤と呼ばれるもので、1955年録音のもの(Sony)です。81年盤が楽譜上の繰り返しをやったりやらなかったりしているのに対し、55年盤は全部スルーしており、それが早めのテンポと相まって一気呵成に聴かせてくれます。より濃厚な81年盤も良いけれど、55年盤の軽やかさや勢いもまた圧倒的なのです。
 グールドのスタジオ録音は1955年と81年の2種、それから上述のモスクワ抜粋盤の他にライヴで全曲演奏したディスクがいくつかありますが、やはり「グールドのゴールドベルク」という別格の扱いにしても良いのだろうと僕は思います。
 もちろん、本来<ゴールドベルク変奏曲>に限らず、バッハであればチェンバロで弾いた方が、よりバッハ自身の意図した音楽に近いのかも知れません。ただバッハの音楽の持つ可能性を追求しようとした時に、ピアノで演奏することはアリでしょうし、その意味でグールドはひとつの極点に到達しているのではないかと。基本、彼は技巧家であり、ロマンティストであり、でも醒めた感覚も持ち合わせており、それらが相対する作曲家によってバランスを変えてくるのですが、バッハは非常に絶妙にハマっていると思います。
 あと、グールドのレコードをまだ聴いたことがない方のためにひとつお知らせを。グールドは結構な量の録音を遺していますが、彼は大概ピアノを弾きながら自分でも歌っており、それがかなり聴こえてきますので、最初は驚かされるかもです。まあ、キース・ジャレットの奇声ほどじゃないかも知れませんが。
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(左から1981年盤/モスクワ盤/1955年盤)
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by ohayashi71 | 2014-04-02 00:53 | 本編

第12回:メンデルスゾーン/弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20

 僕が初めてフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ(1809~47)の曲に触れたのは、多分多くの人もそうだろうと思うのですが、かの<ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 Op.64>でした。いわゆる「メンコン」ですね。子供の頃、僕が未だクラシックを好きになる前の時期ですが、何故か親がチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲とのカップリングのLPを持っていたのです。それは今でも名盤だと思っていますが、アイザック・スターンとユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管(Sony)の演奏でした。ついでに言えば、昔らしくジャケットが冊子状になっていて、そこにメンデルスゾーンの協奏曲のスコアがくっついていました。スコアを眺めながら曲を聴く面白さはそのレコードから学んだように思います。
 さて「メンコン」はもちろん大名曲ですが、メンデルスゾーンは神童と呼ばれただけあって少年時代の作品であっても傑作がいくつもあります。大事なのは神童とか天才とか言い表した場合、その作品が単に「大人顔負け」という程度の完成度に留まるものではない、ということです。音楽で言えば形式や和声等が一定のルールの中で適切に扱われていることだけでは大して意味を持たないと思います。その程度は訓練の成果というだけであって、極端に言えば幼児が東海道線の駅を全部覚えているというレヴェル感とそうは変わらないのでは、ということです。
 技術的な熟練は当然のこととして、更にその上にどれだけの音空間や世界観を描き出すのか、あるいはどれだけのエモーショナルなものを盛り込めるか。恐らくそれは長く生きた大人の方が有利でもないし、子供には無理なことでもないのではないかと僕は思います。10代のモーツァルトや30代のベートーヴェンだから書けた曲もあれば、80代のヴェルディでないと書けない曲もあるはずです。
 そこでメンデルスゾーンのことに話を戻します。彼が<弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20>を書いたのは1825年ですから、彼が16歳の年に当たります。今で言えば高校1年生ですか。軽やかさや情熱的な語り口といったものは確かにメンデルスゾーンの音楽には晩年までずっと見られるものでしょうが、この曲にある若々しく清々しいムードは格別です。伸びやかで快活な第1楽章、それと対照的に穏やかさの中に翳りも含む第2楽章、そして恐らく彼の音楽の重要な側面である気品があってすばしこい軽やかさに満たされた第3楽章、技術と情熱とのバランスが絶妙な構成感の中で保たれている第4楽章というように、どの楽章を取っても本当に素晴らしい曲なのですよ、この八重奏曲は。
 多分僕がこの曲についていちばん聴いてきたのはイ・ムジチ合奏団の録音(Philips/ユニヴァーサル)でしょうか。でもこのディスクは今は入手しづらいかもしれません。あと、クリスティアン・テツラフ、イザベル・ファウスト、リサ・バティアシヴィリといったソリストたちのアンサンブルによる演奏(CAvi-music)は切り込みもシャープで、凄みすら感じさせてくれるもので、まあ今どきの演奏というやつでしょうね。f0306605_231099.jpgf0306605_215036.jpg
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by ohayashi71 | 2014-03-24 02:03 | 本編


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