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第24回:早坂文雄/映画<羅生門>の音楽

 黒澤明(1910~98)と言えば日本を代表する映画監督ですが、彼は自分の作品の中での音楽にもかなりこだわりを持っていたそうです。そのため音楽を担当した作曲家とケンカ別れ、ということもありました。<どですかでん>と<乱>を手がけた武満徹(1930~96)がそうですし、<どん底>や<用心棒>、<椿三十郎>、<赤ひげ>といった1950年代から60年代にかけての黒澤映画の音楽を担当した佐藤勝(1928~99)も<影武者>の制作時に考えの違いから降板しています。
 黒澤のこだわり、と最初に書きましたが、彼の音楽についての注文は「この場面には○○風の曲を付けてほしい」という言い方だったようです。因みに○○の部分には作曲家名や楽曲名が具体的に入るのです。この「○○風」というのが面倒なところで、だったらそのまま○○でいいじゃないか、と相手は普通思うはずなのですが、黒澤はあくまでもそのものではなくて「○○風」と言って押してくるとのこと。そりゃあケンカするはずです。
 さて、佐藤勝よりも前の時期、即ち1940年代から50年代にかけて黒澤映画の音楽を何作も手がけた作曲家が居ます。それが早坂文雄(1914~55)です。早坂は<ゴジラ>で有名な伊福部昭(1914~2006)と共に活動をしたこともありますが、僕にとっては清瀬保二(1900~81/宇佐市出身)や武満との繫がりの方が重要だったりします。まあその辺りの話は長くなるので今日は省略。
 早坂は若いうちに亡くなっていますが、彼は1930年代から50年代の日本の作曲界をリードしただけでなく、映画音楽の分野でも大きな足跡を遺しました。溝口健二や成瀬巳喜男など往年の巨匠監督とも組んでいますが、やはり黒澤とのコンビが最も重要なのではないでしょうか。二人は1948年の<酔いどれ天使>から55年の<生きものの記録>まで全部で8作で組んでいますが、音楽という点から言えばまずは<七人の侍>と<羅生門>だと思います。
 特に<羅生門>。芥川龍之介の<藪の中>を下敷きとして、1950年に三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬などの出演により制作・公開されたこの作品は、日本国内での評価はいまいちでしたが、翌年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞やアカデミー賞の名誉賞(外国語映画賞)などを受賞するなど、国際的に圧倒的な評価を得て「世界のクロサワ」への第一歩としての作品ともなりました。
 そして早坂の音楽。上にも書いたとおり、黒澤はここでもいろいろな注文を早坂に出したようですが、最も重要な場面である真砂(京マチ子)の証言の場面で、彼は「ボレロ風の音楽を」と言ったようです。このボレロはラヴェルの<ボレロ>のことです。証言しながら煩悶が高まっていく真砂の様子を強調する、あるいは象徴する演出効果の一部としての音楽は「ボレロ風」であるべき、と黒澤は考えたのでしょうか。
 恐らくそういった意向を受けての早坂による「ボレロ風」の音楽。場面の時間にして約10分。ラヴェルが繰り返しの中で描いた熱狂とは異なり、怨みや悲しみや憤りといったドロドロとした表情すら浮き上がってきそうなぐらいの情念のボレロだと思えてきます。普通のオーケストラよりも制約のある楽器編成で書かれているようですが、明るく華麗な響きを求めない曲調的にはそれで十分だったのかも知れません。日本的な、アジア的な湿度の高いボレロ。僕は好きですねえ。
 DVDを観ていると、当時の録音状態の貧しさも手伝って、どうしても京マチ子をはじめとする役者陣の演技の方がより強く印象に残る場面かも知れませんが、ぜひ音楽にも注意を払ってください。もちろん、その場面以外にも冒頭や最後に現われる雅楽風の響きや、真砂の妖しい美しさを表すような音楽など全編を通じて聴きどころも多い映画だと思います。
 ということで<羅生門>の音楽を聴くとすれば映画のDVDをまずは挙げるべきなのでしょうが、この音楽の充実ぶりから管弦楽のための組曲風に扱ったCDも出ています。僕が最初に買ったのは佐藤勝(彼は早坂の弟子でもありました)が指揮したCD(<七人の侍>の音楽との組合せ)でしたが、これは今は廃盤のようです。そして僕の愛聴盤は、原作者・芥川龍之介の三男でもある芥川也寸志の指揮、新交響楽団の演奏による早坂文雄の作品集(フォンテック)。ライブ録音であることやもともとのオケのレヴェル(アマチュアとしてはハイレヴェルなのですが)といった弱点はあるにせよ、情念の高まりを感じさせてくれる演奏だと僕は思っています。更にこのCDには<羅生門>の他にも<管弦楽のための変容>という大傑作も含まれています。また現行盤は山田一雄の指揮で早坂の遺作となった交響組曲<ユーカラ>と組み合わせた2枚組のセットになっているようです。
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by ohayashi71 | 2014-07-20 23:39 | 本編

第23回:チャイコフスキー/幻想序曲<ロメオとジュリエット>

 最初に白状しておきますと、僕はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~93)の音楽について共感しきれない感情をいくらか抱えています。中学生時分にクラシック音楽を好きになった当初は、例えばピアノ協奏曲第1番変ロ短調Op.23であったり交響曲第4番ヘ短調Op.36といった曲はよくレコードを聴いてはいました。しかし、いろいろな作曲家の音楽を聴き進めていくうちに、チャイコフスキーの音楽のある意味「聴かせ上手」な感じが少し鬱陶しくなってきたのですね。
 もちろん捉えどころが無い音楽でもつまらないのですが、チャイコフスキーの場合、どんなに激しい部分でも甘さと美しさが同居した旋律がしっかりと存在していて、また管弦楽であればそれを引き立てる見事なオーケストラ遣いをしており、聴き手の心をがっちり掴む展開で音楽が目の前を流れていきます。ただ、それ故に何か「いやらしさ」を僕は覚えることがあるのです。ありのままに感情の爆発を描いて突き抜けるのではなく、その何歩か手前のセンチメンタルな気分で留まっているのではないか、ということなのです。その意味で、僕がチャイコフスキーに対していちばん酷い見方をしていた20代前半には、彼の音楽はどれも「演歌とバレエ」なんじゃないかと思っていました。
 まあ、それから僕も歳を重ねてみて一周したのかもしれませんが、今は以前よりも素直に彼の音楽を聴けるようになりましたけれど。それに、局所的な旋律美と全体としての構成を両立させるのはやはりある種のハイ・レヴェルな職人技が必要でもあるとは思うのです。
 さて、ここまで書いてきた話の流れの上で、挙げるチャイコフスキーの作品が幻想序曲<ロメオとジュリエット>であるべきかどうかは分かりません(笑)。しかし、上に書いてきたような要素を含む作品としてこれを挙げておくのはやっぱりアリだろうとも思います。
 幻想序曲<ロメオとジュリエット>は1869年に初稿が完成していますが、それは現在最も演奏機会の多い版(第3稿)とはかなり違います。曲の出だしから別物で、速く激しい動きをする辺りから同じ主題が現われますが、全体的にはやっぱり別物ですし、第3稿ほど面白くは聴けないはずです。とは言え初稿のCDも出てはいます。ジェフリー・サイモン指揮のロンドン交響楽団(Chandos)とか。
 第2稿については僕は未聴なので触れません。で、1880年に書き上げられた第3稿。初稿からの10年ちょっとの間にチャイコフスキーは交響曲第4番、バレエ<白鳥の湖>Op.20、ピアノ協奏曲第1番、ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35、そしてオペラ<エフゲニー・オネーギン>といった名作を生み出していました。特にバレエやオペラといった文字どおり劇的な音楽についての表現を彼なりに追究していったことも踏まえての<ロメオとジュリエット>への立ち返りは非常に大きかったのではないでしょうか。
 <ロメオとジュリエット>はもちろんシェークスピアの戯曲に基づいていますが、物語の筋を単純に時間的に追うのではなく、運命的な家同士の争いやそれを乗り越えようとする恋愛、そして彼らの間に立つ修道僧ロレンスのイメージを主題とし、それらが絡み合うことで出来上がっています。演奏時間にしておよそ20分ほどの作品ですが、旋律美の極みとも言うべき2つめの主題(恋愛を描いているとされている)をはじめ、それぞれの主題が素晴らしく引き立っており、聴くとあっという間です。
 そんな<ロメオとジュリエット>のディスクですが、僕はやっぱり甘さ控えめでも十分に優れた作品だと思わせてくれるエードリアン・ボールトとロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(EMI/ワーナー)をまず挙げたいと思います。現在いちばん入手しやすいのはボールトのもろもろ10枚組ボックスのようですが、これは正攻法の名演揃いなので。
 それからボールトのスタイルの真逆にはなるのでしょうが、往年の大指揮者ウィレム・メンゲルベルクとアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の1930年の録音(membran)も挙げておきましょう。2つめの主題のテンポの揺らし方や、弦楽器のポルタメント(音のずり上げやずり下げ)を多用した歌い回しによる甘美さの強調はいかにも昔風の演奏なのでしょうが、それはそれで彼らがチャイコフスキーの生きていた時代(に近いもの)の空気を知っている音楽家たちであるという認識はあっても良いのではないでしょうか。こちらもちょっと入手しづらいかも、ですけれど。
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by ohayashi71 | 2014-07-18 00:45 | 本編

第22回:ヴィヴァルディ/協奏曲集Op.8<和声と創意への試み>より 第1曲~第4曲「四季」

 「ど」が付くぐらいのメジャーな作品を。
 アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)の「四季」と言えば、まあクラシック好きでなくても何処かで耳にしたことはあるはずの作品ですね。僕は中学の音楽鑑賞で聴いたのが最初だったように思います。多分、クラシックにハマるよりも前だったと記憶していますが、正直そんなに楽しめなかったようです。そりゃあ子ども心に「きれいだな」ぐらいは思ったかも知れませんが、少なくともそれきっかけでクラシックにハマらなかったのは確かです(僕の場合はラヴェルの<ボレロ>きっかけでしたから)。
 クラシックを毎日のように聴くようになっても、ヴィヴァルディにしてもバッハにしても、とにかくバロック音楽にはまだピンときませんでした。それが少し変わったのは高校に上がってからのことで、何となく「四季」のCDを買ってみようかという気になりました。それで買ってみたのが、当時のガイド本で評論家先生方の賛否が割れていたニコラウス・アーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥスムジクス盤(ヴァイオリン独奏:アリス・アーノンクール)(Teldec/ワーナー)でした。
 これはとても面白かった。とにかくそれまで僕が聴いていた「四季」のイメージとまるで違う演奏だったからです。音のアクセントの独特な付け方、テンポ設定や揺らし方、独奏ヴァイオリンをはじめとした各楽器の鳴らし方の細やかな工夫、そしてそれらを総合した時の印象として顕れてくる「ドラマとしての音楽」の強烈さ。
 確かに「四季」の楽譜には各季節の様子を描いた作者不詳のソネット(十四行詩)が添えられており、それを音楽化したものがこの4つの協奏曲なのでしょう。そう考えた時に、そこで描かれている風景の中で聞こえてくるはずの実際の音を楽器で真似たり、そのイメージに近付けようとする弾き方をしようとするのは当然アリの考え方です。少なくとも18世紀のヴィヴァルディと19世紀のベートーヴェンやメンデルスゾーンの音楽が別物であることは間違いありません。今でこそ、クラシック音楽の演奏の中で「古楽」というスタイルは、歴史考証的な位置付け以上の存在感を持っていますが、僕がクラシックを聴き始めた1980年代半ばでもまだまだ決して十分に認知されていた訳ではなかったと思います。その意味で、「四季」という作品のレコード録音においてアーノンクール盤の果たした役割は大きかった、と言われているようです。
 さて、アーノンクール盤の登場から30年以上経った訳ですが、それからどうなったか。「古楽」スタイルによる演奏の幅はどんどん拡がって、十人十色というか百家争鳴というか、とにかくいろいろなアプローチによる演奏が出てきました。そんな中、今でも僕はアーノンクール盤を愛聴していますが、もうひとつ挙げるとすればファビオ・ビオンディの独奏と指揮によるエウローパ・ガランテ盤(Opus111)でしょうか。「四季」で描かれているドラマを更に追究し、鮮やかで生々しささえあるものとして表現しているようにも思えます。バロック音楽という言葉が優雅さを示すだけの代名詞である時代は終わったのです。
 他にも楽しい演奏はいろいろありますが、変わり種もいくつか。
 ピリオド楽器による「古楽」が主流になってしまうとこれまでのようなモダン楽器による演奏の存在意義は無くなるか、というとそういう訳でもありません。その視点で言えばギドン・クレーメルとクレメラータ・バルティカのCD(Nonesuch/ワーナー)には、クレーメルらしい試みがあります。それはヴィヴァルディの「四季」のそれぞれの間にアストル・ピアソラの<ブエノスアイレスの四季>を挟み込むというもので、だからアルバム・タイトルは<EIGHT SEASONS>です。18世紀の四季と20世紀の四季との対比の妙。またピアソラの方のアレンジの捻りが効いていて、ピアソラなのにヴィヴァルディのフレーズが突然入り込んでみたりもします。これはそれぞれをまとめて前後に置いてしまったら面白さは間違いなく半減するはずで、さすが「鬼才」というCDです。
 続きまして。
 ヴィヴァルディの作品は彼の生前からイタリア以外の国々でも愛好されていました。しかし、著作権意識の薄い時代のことですから、良からぬ?企てをする音楽家も居る訳で。フランスに二コラ・シェドヴィル(1705~82)という音楽家がいました。彼はミュゼッとというフランスのバグパイプ的な楽器の奏者でもあり、それを使った自作も発表はしていたのですが、1739年にヴィヴァルディの「四季」を元にして<春、または楽しい季節>という曲を出版しました。これがすごい。「四季」の楽器編成を単にミュゼット、ヴァイオリン、フルート用にしただけでなく、他のヴィヴァルディの曲の楽章と入れ換えたり、順番を換えたり、更に独自のフレーズを入れてみたりと、やりたい放題に仕上げています。僕は中古CD店でパラディアン・アンサンブルのCD(Linn Records)をあんまり深く考えずに買ってみて、後で聴いてぶったまげましたね。まあ、おおらかな時代だったということで。そんな1枚。
 最後にもう一つ。
 シェドヴィルはともかくとしての話ですが、「四季」にはドレスデン版と呼ばれるものが存在していて、それは原曲が弦楽合奏と通奏低音だったのが、ここではリコーダー、オーボエ、ファゴット、ホルンといった管楽器が含まれているのです。ヴィヴァルディ自身によるものヴァージョンではありませんが、生前のヴィヴァルディはドレスデン宮廷との結び付きもあり、管楽器入りの演奏記録もあったことで、そこからのある種の復元版ということのようです。弦楽器と通奏低音だけでも十分に色彩的な音楽なのに、それに管楽器が加わるとどうなるか。そういう楽しみ方も出来るので、いい時代になりました(笑)。CDはフェデリコ・グリエルモの独奏と指揮でラルテ・デラルコの合奏(CPO)
(上段、左からアーノンクール盤、ビオンディ盤、クレーメル盤。下段、左からパラディアンens盤、グリエルモ盤)
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by ohayashi71 | 2014-07-08 01:48 | 本編

第21回:マーラー/交響曲第7番

 7月7日、という日はもちろん日本では七夕なのですが、僕にとっては「あぁ、マーラーの誕生日だよなあ」と思う日だったりします。別に僕はグスタフ・マーラー(1860~1911)の熱狂的なファンではありません。単に覚えやすい日だから、というぐらいのことです。とは言え、毎年7月7日にやると決めていることがあって、それはマーラーの交響曲第7番を聴く、ということ。多分、もうこの10年ばかりそれが習慣になっています。
 他にも、と言うより未完の交響曲第10番(デリック・クック補筆版をはじめとする完成版も)まで含め、また歌曲も含め、マーラーの作品の殆どはとても好きなのですが、交響曲第7番については一際強い愛着を持っています。
 いろいろな本や解説書を見ると、この交響曲第7番はマーラーの交響曲の中でいちばん人気が無いと書かれていたり、演奏機会が少ないと書かれていることが多いようです。最近は分かりませんが、僕がかつて接してきたものではそういう扱いが普通だったように思います。
 何故か。
 そういう評価をされてしまっていた大体の要因は、この交響曲の最終楽章である第5楽章にあったようです。それまでは、暗さを含む重々しさとぬるい甘さが奇妙に混じり合った第1楽章に、「夜曲(Nachtmusik)」と題されどこか寂寥感すら漂わせる第2楽章、「影のように」と記されたスケルツォである第3楽章、それにマンドリンやギターが登場し文字どおりのセレナード風な音楽が奏でられ再び「夜曲」とされている第4楽章という感じで繋がれていきます。そして、それらに続く第5楽章はティンパニの景気のいい連打で始められ、途中に優美なムードも挟みながらのドンチャン騒ぎのロンドとして描かれ、最後も華々しく明るく閉じられるのです。その第5楽章が余りにもそれまでの流れからすると浮いた感じになって全曲の締めとしてのバランスを崩している、というのがこの曲に対する批判的な考えのようです。
 確かに、第5楽章はその出だしからして、ストレートに言えば下品なぐらいのノリを見せます。その意味で、マーラーが交響曲第5番や第6番で示してきたような、全曲を通してのドラマの結論部分としてのフィナーレとは看做しがたいかも知れません。それまでの話が無かったことになるぐらいの破壊力があると言っても良いでしょう。
 しかし、僕はそういうある種の矛盾すら感じさせるようなドラマとしての音楽の流れをそのまま並べたこと自体がこの曲の価値ではないかとも考えています。別の言い方をするなら、例えばベートーヴェンの交響曲第5番のような明快な起承転結のドラマ、終わりのための始まりであり経過である、という考え方に異議を唱えるような曲があっても良いだろう、ということでもあります。相克や葛藤であったり、喜劇や悲劇といった分類に全てのドラマがいつも分けられる程世の中は単純ではないはずです。もともとマーラーの作品にはそういう要素が含まれていたと僕は思っていますが、全曲を通じての割り切れなさをそのまま描き切った、という意味ではこの交響曲第7番はマーラーの作品の中でも唯一無二の存在なのではないでしょうか。ちょっと違うのかも知れませんが、マーラーと同時代に生きた作家、フランツ・カフカ(1883~1925)の奇妙な作品群を連想してみるのもアリなのでは。
 さて、こう書いてくると交響曲第7番が大変な難曲であるように思われるかも知れません。でも、そうですねえ、やっぱり難曲なんでしょう。だから聴いて受け止める、スッキリしない気分があってもそれも受け止める、矛盾は矛盾のまま受け止める。それで良いんじゃないでしょうか。
 で、そういう僕の感覚にいちばんハマるのはオットー・クレンペラー指揮のニュー・フィルハーモニア管弦楽団による1968年の演奏(EMI/ワーナー)です。僕はこのディスクにはかれこれ20年ぐらいはお世話になっています。クレンペラー(1885~1973)はマーラーの直弟子の一人で、マーラー自身の指揮による交響曲第7番の初演にもリハーサルから立ち会っていた人物です。ならば、すごく正当的な演奏をしているのでは、と思ってはいけません。多くの指揮者が全5楽章を80分弱で演奏するのに対し、クレンペラーは約100分かかっています。遅い、と言えば遅いのでしょうが、そのテンポで、そしてクレンペラーの透徹したバランス感覚によるオーケストラの鳴らし方で見えてくる(聴こえてくる、と言うより)視界の広がり具合はあまりにも圧倒的です。第1楽章と第5楽章がよりヘヴィな音楽になるのは当然としても、僕は第2楽章で示される強烈な寂寥感の風景には強く惹かれます。言ってしまえば、マーラーの交響曲第7番のディスクについては、「クレンペラーとそれ以外」だと思っていただいて構いません。僕もこれまでにたくさんのレコードを聴いてきましたが、この演奏は僕にとって5本の指どころか3本の指に入れなければならないと思うぐらいの愛聴盤なのです。
 曲もディスクもマニアックと言えばマニアックな話でしたけれど。
f0306605_2241023.jpg(クレンペラーによるマーラーの交響曲選集)
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by ohayashi71 | 2014-07-01 00:01 | 本編


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