第40回:バーバー/ヴァイオリン協奏曲 作品14


 サミュエル・バーバー(191081)というとまずは<弦楽のためのアダージョ>でしょうか。単に美しいだけでなく、悲愴美と言い表した方が良い音楽が次第に高まり、いちばん空気が張り詰め切った瞬間に訪れる静寂、そして余韻を漂わせながら静かに閉じられる音楽。ここにあるのは耽美や甘さではなくて、透徹した美に貫かれた抒情というべきものでしょう。この類の抒情性こそ、新しいロマン主義と呼ぶべきものかもしれません。その新しさは僕たちも同時代人として理解、あるいは共感出来るものだろうと思います。だからこそ、この<アダージョ>は20世紀生まれの音楽(1930年代)としては人気や知名度が高いのでしょう。

 僕にとっての「初バーバー」はやはり<アダージョ>でした。で、ひとまずバーバーはこの1曲だけでも良いのかな、と思っていたら大間違いでした。次に知ったのはソプラノと管弦楽のための<ノックスヴィル・1915年の夏>という作品でした。上述した透徹美の抒情は共通していると思いますが、今度は、まあ歌曲であるだけにというのはあるにせよ、ノスタルジックな雰囲気がそこに加わっており、その何とも言えない空気感が素敵だったのです。湿度は高くない爽やかな空気、という感じでしょうか。

 僕は<アダージョ>と<ノックスヴィル>が収録されたCDを大学2回生の頃に見つけて購入しましたが、それは今でもお気に入りの1枚です。それはリチャード・ヒコックス指揮のシティ・オブ・ロンドン・シンフォニアの演奏で、<ノックスヴィル>ではジル・ゴメスが加わっているものです(Virgin)。因みにこのCDの他の収録曲は、コープランドの<アパラチアの春>のオリジナル編成の13楽器による版(現在よく聴かれているのは後に拡大された管弦楽版)とトランペットとイングリッシュ・ホルンと弦楽合奏のための<静かな都会>、ガーシュウィンの<ラプソディ・イン・ブルー>(ピアノはウェイン・マーシャルで、こちらも小編成版)という感じで、今考えてもとてもオイシイ内容だったと思います。ところが、このCD、現在は入手困難らしく、非常に残念なことです。

 さて、その次に知ったバーバー作品が<ヴァイオリン協奏曲>でした。これはとある演奏会で聴いたのが最初で、それからだいぶ経ってからアイザック・スターンのソロとレナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルの録音(Sonyを聴くようになってから名曲だと思うようになりました。

抒情性の豊かさについてはこれもまた同様ですが、ヴァイオリン協奏曲であるからには当然にしても、清冽な水の流れのようなメロディの数々もとても魅力的でした。

 第1楽章の冒頭から直ぐにソロ・ヴァイオリンが歌うように主題を奏でるのですが、それは大見得を切ったり、華々しくテクニックを披露するような感じからは程遠いものです。その分、独特な、結局のところさっきからずっと繰り返し書いている抒情的な世界が拡がります。この後に出てくるクラリネットで出てくる主題はリズミックな動きも見せますが、最初の主題の雰囲気を受け継ぐものでもあるように思えます。第1楽章はこの2つの主題によるソナタ形式で書かれていますが、決して奇を衒うような表現は現われません。

 アンダンテの第2楽章にしても表現上のヤマは存在しますが、どちらかと言うとつつましいものだと僕は思います。もちろん、そのつつましさの中にも確かな美が込められているとも思っています。

 この2つの楽章から一変して最後の第3楽章は実に動きの激しい楽章です。ソロの切れ味たっぷりの無窮動ぶりが鮮やかな音楽です。バーバーは抒情の裏返しのごとく、こういうテクニカルな音楽を急に(当然聴き手の側からすると、という意味で)持ってくることがありますが、ヴァイオリン協奏曲もその一例。各楽章の規模からするとアンバランスさはあるかも知れませんが、音楽の流れとしての対比を示すことでひとつの世界と看做す、というのはやはり面白いと思います。バーバーがこの協奏曲を作曲したのは1939年ということですから、ベルク(1935年)、プロコフィエフの第2番(1935年)、バルトークの第2番(1938年)、ヒンデミット(1939年)、ウォルトン(1939年)、ハチャトゥリアン(1940年)といったヴァイオリン協奏曲の名作と同時期に生まれたことになる訳ですが、それらと並べてみても結構特異な立ち位置にあるのではないでしょうか。

 ディスク。上述したとおり、僕はスターン/バーンスタイン盤をずっと聴いてきましたが、以前よりも若い世代のヴァイオリニストの録音が増えてきているようで、その中ではとりわけヒラリー・ハーンのソロとヒュー・ウォルフ指揮のセントポール室内管による1999年の録音(Sonyが素晴らしいと思います。あまりに抒情性に身を委ね過ぎることのない、ほど良い佇まいと、そして第3楽章で見せる圧倒的なテクニック(僕が聴いた中では最もテンポが速いかも)。

 もしバーバーの音楽について<アダージョ>しか知らないという方、次はぜひこの<ヴァイオリン協奏曲>を。


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(ハーン盤とスターン盤)
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# by ohayashi71 | 2015-08-05 01:17 | 本編 | Comments(0)

第39回:マンロウ<ゴシック期の音楽>


 音楽の聴き方に正しいも間違いも無い以上、特定のジャンルや時代、作曲家あるいは作品ばかりを聴き続けたって何の問題もありませんが、とは言え僕はもったいながりなのでしょうか、自分の鑑賞レパートリーを限定してしまうのはどうかと思っています。少なくとも僕にとっては、音楽を聴くことについて美学や表現、趣味(嗜好の意味として)の違い自体に面白みを見出すことが楽しみだったりもするのです。

 その意味でバロックよりも古い音楽は、僕にとってはまだまだ未知の世界であって(もちろんそれ以降の音楽だって何を知っている訳ではありませんが、あくまでも比較の問題として)、だからこそ楽しみを見つけやすい状態であることは確かです。

 ということで、今回はこれまでよりもずっと古い音楽のことを。

 デヴィッド・マンロウ(194276はイギリス出身の管楽器奏者であり、音楽学者であり、古楽アンサンブルの主宰者だった人物です。彼の活動期間はわずか10年間ですが、その間に実に多くのアルバムを世に送り出しています。今でこそ中世やルネサンス期の音楽を収録したアルバムはさまざまな音楽家がたくさん作り出していますが、マンロウの活動や録音はそういう流れの最初の方に属するものだと考えて良いと思います。

 その意味では現在の音楽家たちの方が演奏の洗練度や精緻さは表現として増しているのかも知れませんし、あるいは研究の成果というものも含まれているのかも知れません。しかし、時代考証の正確さだけが聴き手の感動に直接結び付くものでないことは当然です。その点、少なくともマンロウの演奏を聴いた時、「退屈な博物館見学」をしているような感覚にはなりません。よく出来たコンピューター・グラフィック(CG)よりも手書きのイラストの方が「何だか伝わる」という感じでしょうか。歴史よりも生活感(人肌の感覚という意味で)を感じる演奏と言っても良いのかも知れません。

 マンロウは素晴らしいアルバムをいくつも遺していますが(例えば、かつて東芝EMIから<デヴィッド・マンロウの芸術>として発売されたシリーズなど)、僕がいちばん好きなのはマンロウがロンドン古楽コンソートと共に作った<ゴシックの音楽(Musicof the GothicEra)>というアルバム(Archiv/ユニヴァーサル)です。オリジナルのLP3枚組(CD2枚組)で、12世紀後半から13世紀前半の「ノートルダム楽派の音楽」、13世紀中盤以降の「アルス・アンティクァの音楽」、そして14世紀の「アルス・ノヴァの音楽」で構成されています。 

 僕が最初に気に入っていたのは「ノートルダム楽派」として扱われているレオナン(レオニダス)とペロタン(ペロティヌス)の音楽でした。グレゴリオ聖歌の素朴な神秘さや荘厳さとは異なり、そこに不思議な浮遊感が加わった、ある種の異様さすらも覚える音楽と言っても良いでしょう。それは単に斉唱が多声の合唱に変化しただけと言うには留まらない独特な美学が働いているように思います。当然のことながら、この美学(仮にそう呼んでおきますが)には「信仰」活動あるいはその表現の「かたち」の一種としての音楽、という意味合いも含まれていたと考えるべきです。

 それから13世紀の声楽曲をまとめた楽譜集<モンペリエ写本>に掲載されている作者不詳の<誰かが私を見てるかどうか(S'onmeregarde)>。二重唱で民謡的な旋律が歌われますが、2つのパートは主従関係というよりも、絡み合って一体となって響いている状態であって、僕はそこに美しさを覚えます。更にフィドルやハープが伴奏や間奏に加わることで彩りが増しているように思います。

 また「アルス・ノヴァの音楽」のひとつとして紹介されている作者不詳の<カタカタコットン、ある朝ロバンは(Clap,Clap, Par Un Matin)>はカタカタコットン、ある朝ロバンは粉挽小屋にコットン、おでかけ」と歌われる曲で、二重唱がClapという単語を何度もそれぞれで繰り返すことで調子が付いていてとても楽しい一曲です。

 ペロタンのように演奏時間にして10分を超えるような宗教的な作品がある一方で、1分少々でさっと終わってしまう世俗的な音楽も数多く収録されており、イメージ以上に幅広い中世ヨーロッパの音楽世界を概観するにはもってこいのアルバムだと思います。今は残念ながら国内盤が入手しづらいようで(抜粋して1枚にまとめたものもかつて出ていましたが)、解説や対訳のことがあるにしても、まだこの時代の音楽をあまり知らないという方であれば、輸入盤ででも一度触れてみると大変面白く感じていただけるかと。
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# by ohayashi71 | 2015-07-02 23:24 | 本編 | Comments(0)

第38回:ハイドン/交響曲第82番ハ長調 Hob.I-82「熊」

 そう言えばの話。
 私たちは何気なく「交響曲」という単語を使っているわけですが、よくよく考えてみると、ドイツ語でSinphonie、イタリア語でSinfonia、英語でSymphonyという言葉をよく日本語で「交響曲」という訳をあてたよなあと思ったりするのです。「響き」を「交わす」、という状態はもちろん大概の音楽に当てはまるはずですが、このSinphonieというジャンルを特に「交響曲」と呼ぶことにしたのは、実際の音楽のイメージからすると実にピッタリくるように思えます。で、因みに調べてみると「交響曲」という訳語を作ったのはかの森鷗外(1862~1922)なのだそうです。なるほど、鷗外はドイツ留学中にかなり音楽会や舞台公演を観ていたようなので、その実体験が名訳を生んだのでしょう。
 さて、交響曲の起源は17世紀に遡るのですが、現在演奏会で多く取り上げられているのは18世紀以降の作品です。そしていろいろな作曲家が試行錯誤を重ねていく中で、現在に繋がる交響曲の基本形を確立したとされているのが100曲以上の交響曲を遺したヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)です。ハイドンが最初の交響曲を書いたのが1750年代で、最後の交響曲を書いたのが1795年ですから、彼は交響曲というジャンルに40年間ぐらいは向かい合い続けたことになります。
 音楽の教科書なんかでは『ハイドンの代表作:交響曲「告別」「驚がく」「軍隊」「時計」』という感じで記されていたように思います(大昔には「さよなら」とか「びっくり」とか書かれていたこともありますが)。確かにそう並べられるのは分からないではない。ただ、もしハイドンをもう少し深く聴く機会があるのであれば、やはりもう少し突っ込んだ接し方はしておきたいところです。要は、ハイドンの交響曲が40年間書き続けられたことを思い出すなら、その間にスタイルの変化があったことを理解しておくべき、ということです。
 例えば「告別」(因みにハイドンの交響曲の愛称は大概彼自身の「名付け」によるものではありません)。嬰ヘ短調という調性、徐々にオーケストラのパートが減っていく終楽章の作りと、それらを含めたドラマティックな表現などは、ハイドンの実験精神の表れと言えるでしょう。しかもそれは何も「告別」に限ったことではなくて、その時期(1770年前後)に書かれた彼の交響曲にはしばしばこうした実験的な表現が見受けられます。これらは同時代の文学運動の呼び名から「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」の作品と扱われています。
 一方、「驚がく(驚愕)」「軍隊」「時計」といった交響曲は、いずれもハイドンが1790年代に入って手がけたもので、ハイドンのロンドン公演を計画した興行師(今でいうところのプロモーター)ペーター・ザロモンの依頼で書かれたものです。6曲+6曲の12曲が書かれたこの「ザロモン・セット(あるいはロンドン・セット)」は、彼の交響曲創作の集大成とも言うべき存在です。これらは4つの楽章相互のバランスの良さと「職人技」とも言うべき動機展開のスリルが含まれている上に、更に前述のような実験精神をもにじませた交響曲群であり、まさに「巨匠の風格と余裕」を感じさせてくれます。
 では「シュトゥルム・ウント・ドラング」と「ザロモン・セット」の間の交響曲は? それは形式と構成、更に管弦楽編成の安定化を進める流れで作られていったものであるように思えます。その意味で「ザロモン・セット」の12曲の交響曲は、僕は「完成形の向こう側」にまで達した存在だと考えています。とすると、ハイドンの交響曲の「完成形」はどの辺の曲か。それは1780年代の半ばに書かれた「パリ・セット」と呼ばれる6曲の交響曲(第82番~第87番)ではないでしょうか。
実は、僕が初めてハイドンの交響曲の面白さ、素晴らしさを実感出来たのは交響曲第82番ハ長調Hob.I-82に演奏会で接した時でした。それは往年の名ヴァイオリニストであり、指揮者としても活躍したシモン・ゴールドベルク(1909~93)の最晩年の演奏会でのことです。指揮のゴールドベルクはもちろんですが、管弦楽を見事に引き締める響きを打ち出すティンパニが全曲を通じてまた素晴らしかった。
 序奏なし(この曲の場合「助走なし」と言っても良い)で、いきなり一気に駆け上げる第1主題と、続いて現れる「タタタッタッタン」というリズム、コンパクトで優美な第2主題を中心にしたソナタ形式の第1楽章の生命力に満ちた華々しさに僕はまず感激しました。
 急速な第1楽章から一転して、伸びやかさの中に時おり明暗のコントラストもしっかりと描き出している変奏曲の第2楽章や落ち着いたメヌエットの第3楽章も良かったのですが、やはりフィナーレの第4楽章。ヴィヴァ―チェの4分の2拍子で、低弦が前打音(h=シ)と二分音符(c=ド)の半音上がるパターンで弾き出すのですが、この響きが「熊の唸り声のようだ」と当時思う人は思ったらしく、そこからこの交響曲の愛称は「熊」と呼ばれています。で、急速なテンポとこのワクワクとさせるような出だしの第4楽章は。豪快かつ爽快な楽章で、切れ味抜群の音楽。
 このゴールドベルクの名演のイメージが僕には強過ぎるのですが、それでもディスクを挙げるとすればまずはブルーノ・ヴァイル指揮のターフェルムジーク・バロック管弦楽団(Sony)ですね。圧倒的な躍動感と節度ある表現とのバランスが高度に絶妙な演奏。あとはアダム・フィッシャー指揮のオーストリア=ハンガリー・ハイドン管弦楽団(Nimbus)。少し野暮ったさもありますが、優れた演奏だと思います。やり過ぎなぐらいにやっちゃっているのはトーマス・ファイ指揮のハイデルベルク交響楽団(Hanssler)。この上なく強烈に刺激的な演奏です。ということで、とりあえず重厚長大的なアプローチでは、鮮やかに「響き」を「交わす」音楽であるハイドンの真価にはなかなか触れづらいように僕には思えるのです。

f0306605_21452093.jpgf0306605_21453835.jpgf0306605_21475499.jpg(左からヴァイル盤、フィッシャー盤、ファイ盤)
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# by ohayashi71 | 2015-06-15 21:49 | 本編 | Comments(0)

第37回:リゲティ/ハンガリアン・ロック

 あくまでも一般的に、という前提で言うのであれば、ピアノに比べるとチェンバロは馴染みが薄い楽器だろうと思います。でもたまたまなことですが、僕がこれまで関わった文化施設のうち、いくつかは備品としてチェンバロを所蔵していました。で、せっかくあるのだからそれを使った企画をやりましょう、という流れにもなりました。それで僕も何度かチェンバロに関わる企画を担当しました。普通にリサイタルもやりましたが、東京からチェンバロの製作工房の方を招いて楽器の仕組みを紹介するレクチャーを開催したこともあります。当然のことながら、そういうリサイタル等の実演の場面で演奏される曲目としては、チェンバロが最も華々しかった時代の音楽、例えばバッハ、スカルラッティ、ラモー、クープラン、といったバロック期やそれ以前の作曲家によるものが多かったように思います。
 確かにチェンバロはその後ピアノにその位置を取って代わられてしまいましたが、だからと言ってチェンバロのための新しい音楽が全く生まれなかった訳ではありません。20世紀になると、ピアノ(打弦楽器)とはまた異なるその独特な音色(撥弦楽器)を活かした作品も現われました。今回はそういう曲のことを。
 ハンガリー出身の作曲家、ジョルジ・リゲティ(1923~2006)は20世紀後半を代表する作曲家の一人です。彼はその創作活動の中でさまざまな書法を用いていますが、例えば半音以下の微分音まで使って奏でる音の塊による「トーン・クラスター(音の房)」、あるいはポリリズム、ミニマルといった表現による作品があります。面白く(もちろんマジメに)聴ける作品としては、特に「トーン・クラスター」の代表例と言える、そしてスタンリー・キューブリックの映画<2001年宇宙の旅>で使われたことでも知られている<アトモスフェール>(この映画ではリヒャルト・シュトラウスの交響詩<ツァラトゥストラはこう語った>の冒頭部分の方が圧倒的に有名でしょうが)は是非耳にしていただきたい音楽です。クラウディオ・アバドが行った現代音楽のシリーズ、「ウィーン・モデルン」の中で<アトモスフェール>をウィーン・フィルとやった演奏(DG)や、ジョナサン・ノット/ベルリン・フィルによる演奏(Teldec)などのディスクがあります。因みにレナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィル(Sony)や小澤征爾/読売日本響(ビクター/Tower)のディスクもありますが、ここでは置いときます。
 さて、チェンバロに話を戻します。リゲティには3曲のチェンバロのための曲があります。1968年に書かれた<コンティヌム>はチェンバロによるトーン・クラスター作品で、なかなか圧巻。でも僕がそれ以上によく聴いているのは1978年に書かれた<ハンガリアン・ロック>です。
 この曲は副題として「シャコンヌ」と記されており、そのとおり、速いテンポの8分の9拍子で左手で奏される4小節のフレーズが40回以上繰り返されます。しかも8分の9拍子ではありますが、1小節の中の割り振りとしては「2+2+3+2」になっており、要は「3+3+3」よりも複雑なリズムパターンを持っています。そして、右手は最初こそ1小節単位であったり、「2+2+3+2」に嵌るようなフレーズ(ハンガリー民謡風な)を放り込んできますが、次第に小節をまたぐようなフレーズの連続になったり、9拍子と並行して7拍子を当てていったりと、さながら音の洪水のような状態になっていくのです。それをチェンバロのあの音色でやるのですから(ピアノの、ある意味における自在さや明快さで無いことが重要なのですが)、聴き手は圧倒されてしまいます。チェンバロでここまで出来るのか、という意味で。最後はテンポを緩めてふーっと消えていくのですが、とても濃い5分間です。
 僕は<ハンガリアン・ロック>を冒頭に書いたチェンバロ企画の中で出来ないかな、と企んだことはありますが、残念ながら実現しませんでした。で、もしこの曲を聴いてみたいという方におススメするとすれば、この曲の初演者でリゲティから献呈されているエリザベト・ホイナツカのディスク(Erato/ワーナー)でどうぞ。と、言いたいところですが、これはちょっと入手が難しいかも。ホイナツカにはもう一つ別の録音(リゲティの鍵盤作品をまとめたもの/Sony)もありますが、僕はErato盤を愛聴しています。他にも何種類かディスクはありますが、リサイタルのライヴ録音として出ているマハン・エスファハニ(Wigmore Hall Live )を聴くといかに大変な曲か分かるはずです。またチェンバロからは外れてしまいますが、リゲティの作品をいろいろな自動演奏楽器で演奏したものをまとめている、まあマニアックなディスク(Sony)が出ており(愛聴盤ですが(笑))、そこで<ハンガリアン・ロック>はバレル・オルガンで演奏されています。遊園地とかにありそうな手回しのオルガンでやってみると、この曲はますます不思議な感じになり、それがまた面白かったりします。
 おまけ。ホイナツカは現代音楽におけるチェンバロ作品演奏の第一人者ですが、意外に皆さんが彼女の演奏を聴いたことのありそうなものとして、ギドン・クレーメルの名盤<ピアソラへのオマージュ(Hommage A Piazzolla)>(Nonesuch)を挙げておきます。その中の<ブエノスアイレス午前零時>に出てくるチェンバロのひんやりとした味わいと言ったら。

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# by ohayashi71 | 2015-06-04 00:10 | 本編 | Comments(0)

第36回:ヒンデミット/ヴィオラ・ソナタ 作品11-4

 僕は学生時代の4年間はオーボエを吹いていましたが、今からもし新たに楽器を習うことが出来るのであればヴィオラにはとても興味があります。楽器を弾きこなすこと自体の難しさもさることながら、ト音記号やヘ音記号ではないアルト記号に慣れるのにも時間がかかりそうですけれど。

 ヴィオラが主役の名曲、と言うと僕の場合はまずこのシリーズでもご紹介したウォルトンの協奏曲を挙げたいですし、バルトークの協奏曲もしかり。アンサンブル作品で言えばブラームスの、クラリネットからの置き換え版となる2曲のソナタや三重奏曲、五重奏曲、あるいはショスタコーヴィチのソナタ等も素晴らしいと思います。

 そして忘れてはならないのはパウル・ヒンデミット(18951963)のヴィオラ・ソナタ作品11-4です。ヒンデミットは作曲家としては交響曲<画家マチス>や<ウェーバーの主題による交響的変容>といった管弦楽作品が知られていますが、演奏家としてはヴィオラの名手として活躍しました。僕にとって重要なのは、ウォルトンの協奏曲を初演したのがヒンデミットだったということです。実はウォルトンは初演者と目していたヴィオラ奏者に彼の協奏曲の演奏を拒否されており、その窮地を救ったのがヒンデミットでした。ヒンデミットとウォルトンの交友はこの後もずっと続き、ウォルトンは後に<ヒンデミットの主題による変奏曲>という管弦楽作品を書いています(ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団(Sony)の名演のディスクがあります)。

 さて話を戻してヒンデミットのソナタ。ヒンデミットのヴィオラ作品は協奏的作品やピアノとのソナタ、無伴奏のソナタなどがありますが、1919年に書かれた作品11-4のソナタが僕は特にお気に入りです。僕が初めてこのソナタを知ったのはタベア・ツィンマーマンのリサイタルの時。20年前のことです。その際にブラームスの2曲のソナタと共に演奏されたのがヒンデミットの作品11-4でした。

 それまでの僕のヒンデミットのイメージは上述した管弦楽作品から来ていて、それは良くも悪くも感情表現的というよりも音による運動表現や構成、あるいは音楽としての機能美を体現したもの、というイメージでした。彼の作品についてよく使われる言葉としては「新即物主義」とか「実用音楽」というものがあり、そういった言い方はヒンデミットの時代が例えばバウハウスのようなモダニズム文化が花開いた時代でもあったということを思い出させます。

 ところが、作品11-4のヴィオラ・ソナタはそういう僕のイメージとはだいぶ違う音楽でした。もちろん前述のとおり、ヒンデミットはモダニストとしてのイメージが一般的だと思いますが、このソナタについてはまだ19世紀的な、と言うか後期ロマン派的な表情も見受けられます。その意味での情感の豊かさは、例えば「幻想曲」と題されたこのソナタの第1楽章からも窺えます。8分の6拍子で穏やかに歌われる冒頭のフレーズがその後流れの中で5回現れるだけのことなのですが、ピアノの細やかな動きと相まって独特な渋色の空間が拡がります。

 第1楽章の「幻想曲」に休みなく続けられる第2楽章は「穏やかに、民謡のように飾らずに」と示された変奏曲です。緩急さまざまな変奏が4つ続いて音楽が高潮しきったところでまた休みなくそのまま第3楽章に入ります。最初の主題(A)は、キメる、というか歌舞伎で言うところの見得を切るような「タタター」というフレーズが印象的ですが、続く2つめの主題(B)はそのリズムを取り込みながら全く対照的な柔らかく叙情的な表情で出てきます。こうして(A)と(B2つの主題が出てきますが、それらは展開せず、第2楽章の変奏の続きがそこから再び現われます。変奏を2つ挟んでまた(A)と(B)が戻った後、通算7つめの変奏が終結部として奏され、力強く全曲を閉じます。

 構成をこう文章で書いていくと複雑そうかも知れませんが、各楽章のフレーズが関連していることと、構成中の緩急の付け方の巧みさが結果として全曲の流れを自然なものにしており、非常に聴きやすい作品になっているのではないかと僕は思っています。

 この構成に対するアプローチと、ヴィオラの音色、そしてピアノとのコンビネーションといった点から僕がいちばん好んで聴いているのは、現在ベルリン・フィルのソロ・ヴィオラ奏者を務めている清水直子とオズガー・アイディンによる2000年録音の演奏(Genuinです。

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# by ohayashi71 | 2015-05-12 13:38 | 本編 | Comments(1)


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